・・・「Editor's Museum」入口にキリンが描かれており、小宮山量平さんが愛用するかばんにもキリンの絵柄が付いてるという。とりわけ、「キリン」の原稿集めや学校訪問を粘り強く続けた浮田要三さんの姿に、「キリン」の不思議な魔力(魅力)を感じずにはおれません。「キリン」という誌名は竹中郁さんが命名、どのような思い(想い)だったのでしょうか。
【竹中郁】(1904~1982)
兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家★小磯良平(1903~1988)は二中の同級生で、生涯交友が続いた。小磯の卒業制作作品★「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。中学時代より★北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。1924から1926年までヨーロッパに留学する。1926年に近藤東らの慫慂により『詩と詩論』に参加する。1932年刊行の詩集『象牙海岸』中の★「ラグビイ」は当時流行したシネポエムのスタイルをとり、モダニズム詩の代表的成果の一つと評価されている。しかし、モダニズム的都会趣味の芯には常に洗練された抒情があり、モダニズム詩のフォルマリズム的傾向とは一線を画した。1930年には「四季」の同人になっている。戦後は、詩作とともに雑誌★『きりん』の創刊編集、多数の校歌作詞など、児童詩の分野での指導育成に尽力した。
・・・小磯良平さんの卒業制作のモデルだったとは、この服装は「ラグビイ」のユニフォームですよね。
《参考》「象牙海岸」刊:1932第一書房
ラグビイ
寄せてくる波と泡とその美しい反射と
帽子の海
Kick off! 開始だ 靴の裏には鋲がある
水と空気とに溶けてゆくボールよ 楕円形よ 石鹸の悲しみよ
《あっ どこへ行きやがつた》
脚 ストッキングにつつまれた脚が工場を夢みてゐる
仰ぎみる煙突が揃つて石炭を焚いてゐる
俯向いてゐる青年 考へてゐる青年 額に汗を浮かべてゐる青年 叫んでいる青年 青年 青年 青年はあらゆる情熱の雨の中にゐる 喜ぶ青年 日の当たつてゐる青年
美しい青年の歯
心臓が動力する 心臓の午後三時 心臓は工場につらなつてゐる 飛んでゐるピストン
昇る圧力計
疲労する労働者 鼻孔運動
タックル 横から大きな手だ 五本の指の間から、苔のやうな人間風景
人間を人間にまで呼び戻すのは旗なのです 旗の振幅 《忘れてゐた世界が再び眼前に現れる》 三角なりの旗 悪の旗
工場の気笛 白い蒸気 白い蒸気の噴出、花となる
見えぬ脚に踏みつけられて、起きつづける草の感情 中に起きられない草 風、日に遠い風のふく地面
ドリブル六秒 ころがるボール 雨となるベルトの廻転
汗をふいて溜息する青年 歪んでゐる青年 《ボールは海が見たいのです》
伸び上る青年 松の尖つた枝々
密集! 機械の胎内 がつちりと喰ひ合つてゆく歯車
ぐつたりとする青年 機械の中へ食はれてゆく青年 深い深い睡眠に落ちこむやうに
何を蹴つてゐのだろう
胴から下ばかりの青年
《ああ僕は自分の首を蹴つてゐる》
Try!
旗、旗旗旗
わつと放たれた労働者の流れが、工場の門から市中さして 夕闇のやうに黒い服で
飛んでゆく新聞紙、空気に海月と浮いて………
踏切がしまる 近東行急行列車が通りすぎる 全く夜
落ちてゐる首 《どこかで見た青年だ》
太鼓の擦り打ち、鈍く、鈍く
雨だ、雨だ
・・・竹中郁さんは、学生時代に「ラグビイ」をやっておられたか、大好きだったんでしょうね。井上靖さんは児童詩雑誌の名前を「たんぽぽ」にしようと考えていたようですが、竹中さんが「きりん」がいいと命名したそうです。
《NEWS》2016.2.28朝日新聞デジタルより
司馬遼太郎ら愛した老舗バー閉店「壁画」だけ残った
作家の谷崎潤一郎、司馬遼太郎らが愛した老舗バーが2015年末、90年を超す歴史に幕を閉じた。神戸ゆかりの文化人らが描いた「壁画」が客を見守ってきたが、取り外されて市に寄贈され、今後公開される。店は神戸・三宮の「アカデミーバー」。1922年に杉本栄一郎さんが神戸市灘区で開業し、その後三宮に移転。戦後まもなく現在地に移った。「舶来かぶれ」だったという栄一郎さんが手がけた内装はハイカラな山小屋風で、作家や画家、俳優らのたまり場に。戦前には谷崎や佐藤春夫も通った。50年前後、戦争でちりぢりになって戻ってきた画家らが漆喰の壁に、仲間への伝言板のように絵を描いていった。★小磯良平や小松益喜、田村孝之介、津高和一、詩人★竹中郁ら16人で、縦108センチ、横185センチの畳1畳ほどの大きさにちりばめられた女性像や動物、花などは淡いパステルトーンで調和している。阪神大震災で建物は傾いたが、半年後に再開。今回、周辺の再開発のため取り壊されることになった。壁画は今後、修復され、★「神戸ゆかりの美術館」(神戸市東灘区)で公開される予定。壁画の保存に協力した市立小磯記念美術館の廣田生馬・学芸員は「本来なら一緒に描かないはずの人たちの貴重な合作。サロンのように文化人が集まった神戸の歴史的、文化的背景がわかる」という。半世紀前に父から店を継いだ杉本紀夫さん(76)は「壁は自分だけのものでないから、つぶされへんと思っていた。美術館に運んでみんなに見てもらえるとは夢物語のよう。『美術館で会いましょう』とお客さんには言うとんねん」と喜ぶ。
・・・さて、「アトリエUKITA」は2013年11月末をもって閉鎖されましたが、その時代の空気を知るためには、その場所に行ってみるしかありません。
《アトリエUKITA》
537-0013大阪市東成区大今里南2-5-6/090-3862-3563
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpnhc100/Atlier_UKITA/Welcome.html
1985年より大阪市東成区にアトリエUKITAを開き、ここを拠点に28年の長きにわたり、作品をつくり続けてまいりましたが、本年、2013年7月21日88歳で逝去いたしました。その後、アトリエUKITAも浮田要三の意志と、縁を大事にする方々のつながりで運営してまいりましたが、本年11月末をもって閉館いたしました。アトリエUKITAを応援していただいた皆さまには心よりお礼申し上げます。今後とも、皆さま方が浮田要三と出会う機会をつくることを考えておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。そして、浮田要三との対話を続けていっていだだければ幸いです。2013年12月
★浮田要三メッセージ
現代美術の絵画教室です。作品を作って心の骨を鍛えましょう。たのしい絵(作品)をつくって心の骨を丈夫にしましょう。心の骨を鍛えることは人間の仕事の中でいちばん大切なことです。だから好きな作品をつくりながら心の骨の勉強をしましょう。アトリエUKITAはそんなところです。
・・・「アトリエUKITA」の前に立ち、「グタイビナコテカ」を実感することができました。今なら、まだ建物は健在です。来て、観て、感じて本当に良かった。