・・・「キリン」を調べていて、なんと「具体美術」に出会いました。
《NEWS》2007.9.6中外日報(社説)より
詩情はぐくんだ竹中郁氏の足跡
「すいそばくだん/すいそばくだん/おおかんにんしてちょうだい/だれをころすの/すいそばくだん/わたしはみんなと/くらしたい/つくるお金で/わたしらに/いいものこうてちょうだい/どうぞどうぞ/かんにんしてちょうだい」戦後の昭和20年代から20余年間、大阪で『きりん』という児童詩の雑誌が発行されていたのをご存じだろうか。大正7年から昭和11年にかけて東京で刊行された児童文学誌の★『赤い鳥』はよく知られているが、その通算号数は196。★『きりん』は昭和23年から46年まで、それを上回る220の号数を重ねた。ここに紹介したのは昭和25年に、大阪市立田辺小学校2年生だった山口雅代さんが『きりん』に発表した作品である。水爆の初実験が行なわれたのは昭和27年(1952)で、山口さんの詩はその2年前に作られた。恐らく、水爆製造が進められているとの報道を聞いて、詩につづったのだろう。この詩を読んで感じられるのは「かんにんしてちょうだい」で分かるように、政治やイデオロギーではなく、幼い心が人間としての自然な感情にもとづいて、非核平和を求めていることだ。これは『きりん』を創刊した竹中郁氏の作風そのものでもある。神戸市出身の竹中氏はモダニズム詩人として知られ、終生、関西を離れなかった。終戦直後、焼け跡の広がる大阪で、ある出版業者が新雑誌の創刊を思い立ち、竹中氏や、作家の井上靖氏ら文化人数人に相談した。井上氏は当時、毎日新聞大阪本社学芸部副部長で、毎日小学生新聞の詩の選者を兼ねていた。その縁で、児童詩の専門誌『きりん』の創刊が決まった。竹中氏らが選んだ作品に大阪府豊中市立桜塚小学校5年生、村田もと子さんの「さくら」がある。「土手にねて/桜をみたら/いっそうきれいだ/つかれが土手に/すわれたようだ」竹中氏は「大人だと、きっと桜の様子をくどくど書いて、かえって美しさへの感動を取り逃がしてしまうだろう=要旨」と選評に記し、村田さんの簡潔な表現を激賞している。こうした業績を残したにもかかわらず『きりん』の知名度は『赤い鳥』には及ばない。今のうちに『きりん』の功績を書き止めておこうとの観点から、このほど『きりんのあしあと』という冊子が大阪で刊行された。著者は大阪市東淀川区在住★澤田省三氏。大阪府高槻、吹田両市の3つの小学校で校長を務め詩人校長とも呼ばれた。澤田氏は『きりん』創刊前年の昭和22年に生まれ、きりんとともに育った世代である。小学校在学中に、竹中氏に傾倒する教師から詩作を教えられた。同50年に小学校教師になった時は『きりん』はすでに終刊していたが、竹中氏が大阪市の「子ども文化センター」などで毎月一回開く「子ども詩の会」へ参加して、児童とともに指導を受けた。文部省(当時)は児童に、まず原稿用紙の正しい使い方を教えるよう求める。しかし竹中氏は、形式よりも児童の感性を大切にした。最初に紹介した山口雅代さんは、5年生の時「変わる考え」を発表した。「病院で/手足の不自由な/ちいさな子をたくさん見た/わたしのからだは もうこれでよい/この子たち/どうぞ よくなってちょうだい/こう思って病院を出た/電車で駅へついた/やっぱり なおりたくなった」実は山口さんは、先天性脳性まひという重い障害の身だった。それでいて、自分より年少の患者に温かい目を注ぐ。まさに宗教者の境地だ。その後の人生で山口さんがどんな作品を作ったのか、ぜひ澤田氏にそれを追跡してほしいと思う。
・・・このNEWSをもとに、児童詩雑誌「きりん」を追いかけ「浮田要三」さんに出会いました。
《「ボマルツォのどんぐり」》著:扉野良人/2008晶文社
新進気鋭の本読みが、作家・田中小実昌や川崎長太郎、さらに加能作次郎らの作品世界をさまよい、そして、気がついてみると、彼らの故郷や墓参りと旅をつづけている。そして、中原中也の詩集『山羊の歌』という一冊の本がどう作られたのかを追っていく。さまざまな本といろいろの人たちの心暖かいエピソードを綴った珠玉のエッセイ集。
・・・「ボマルツォのどんぐり」の中に、「きりん」も登場する。その内容が「アトリエUKITA」WEBサイトに紹介されていました。
【浮田要三】アトリエUKITA
537-0013大阪市東成区大今里南2-5-6/090-3862-3563
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpnhc100/Atlier_UKITA/Welcome.html
1985年より大阪市東成区にアトリエUKITAを開き、ここを拠点に28年の長きにわたり、作品をつくり続けてまいりましたが、本年、2013年7月21日88歳で逝去いたしました。その後、アトリエUKITAも浮田要三の意志と、縁を大事にする方々のつながりで運営してまいりましたが、本年11月末をもって閉館いたしました。アトリエUKITAを応援していただいた皆さまには心よりお礼申し上げます。今後とも、皆さま方が浮田要三と出会う機会をつくることを考えておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。そして、浮田要三との対話を続けていっていだだければ幸いです。2013年12月
★浮田要三メッセージ
現代美術の絵画教室です。作品を作って心の骨を鍛えましょう。たのしい絵(作品)をつくって心の骨を丈夫にしましょう。心の骨を鍛えることは人間の仕事の中でいちばん大切なことです。だから好きな作品をつくりながら心の骨の勉強をしましょう。アトリエUKITAはそんなところです。
★浮田要三と『きりん』
画家としての浮田要三(1924~2013)の活動は、具体美術協会時代の1955年から64年までと1983年から亡くなる2013年までの時期に分かれる。しかし、画家としてよりも浮田の純粋な心の基盤を支えたのは、児童雑誌『きりん』の編集者として活動したことであった。『きりん』は1948年2月大阪の★「尾崎書房」から創刊された子どもの詩と絵の雑誌であった。その営業、編集実務を浮田ともうひとり星芳郎が担当、子どもから寄せられる詩の選者は、当時毎日新聞大阪本社に勤務していた★井上靖、彼はまさしく『きりん』の生みの親であった。そして毎日小学生新聞で詩の選者を務めていた詩人★竹中郁が携わり、さらに★足立巻一★坂本遼が加わり編集体制ができた。そこでの浮田の役割は、近畿一円の小学校を訪れ、国語の授業の副読本として勧め、時には子どもを集めて詩の朗読をしたという。1962年に廃刊となるまでの14年間に浮田が『きりん』から教えられた事柄は、浮田の生き様を示すものであった。 創刊号の表紙絵は、★脇田和が手がけ、次にのちに具体美術協会の代表となる★吉原治良に表紙絵を依頼したのは、3号目であった。編集者は、創刊当初から『きりん』とのなんらかの関わりを吉原に求めていたのである。この出会いが、浮田のその後の芸術観に大きな弾みを与えた。その後も表紙絵は★小磯良平★須田剋太★山崎隆夫らが手がけているが、子どもとの絵のかかわりに深く関わっていったのは吉原であった。この時点で浮田は、まだ絵画を手がけてはいない。編集者、販売営業マンとして東奔西走していたのである。そして毎月推薦されてくる子どもたちの絵を選び、それを表紙絵やカットとして使った。多く寄せられる詩とともに子どもたちの純粋な表現を見ることは、浮田の芸術観を形成し、芸術家でもない、芸術批評家でもない浮田要三を生み出した。
★「きりん」大阪1948~62尾崎書房/日本童詩研究会
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpnhc100/Atlier_UKITA/kirinno_hui_ben.html
たとえば天上から踏みだされた水色の巨大な長靴、新聞紙に黒い絵の具をたっぷり浸ませた筆(筆でなければ手か足か?)で曲線をひねったもの、あるいは二本の折れ釘が地面にささったような絵や、ベタ塗りした丸、三角、オタマジャクシみたいな形が画面いっぱいに散らばったり、青色を筆先でチョンと置いて点綴した目の覚めるような余白。これらはすべて抽象、アブストラクトの絵である。1953年ころから『きりん』では毎号、抽象画が表紙をかざった。その絵はほとんどが子供によるもの。子供の抽象画、子供に「抽象」という概念があるのかと疑いもわくが、いまはそうと言っておく。『きりん』の縦横とも17.6センチという正方形の判型はドーナツ盤レコード・ジャケットとほぼ同じサイズで、手にとるとわずか36ページの、紙もあまり上等ではない薄手の雑誌だとわかる。色刷りの表紙、上辺または左辺に〝きりん〟と切り絵文字によるタイトルと号数、印刷発行日などを記す小さな枠があるだけのシンプルなデザインである。正方形のなかに子供の抽象画はいきいきと引きたっている。『きりん』は1948年2月、大阪の尾崎書房から創刊された。当時、毎日新聞学芸部副部長だった★井上靖(1907~91)が「子供の詩と童話の雑誌」をつくろうと詩人、★竹中郁(1904~82)に監修を依頼し、誌名は竹中が命名した。創刊号はB5判28ページ、★脇田和が表紙を描く。児童雑誌としては、戦前の『赤い鳥』を彷彿とさせるものだった。「日本で一番美しい詩とお話の本にしようというのが、この雑誌を作る私たちの願いです」と後記にあるように、敗戦後の混沌とした世相から出発しようとする気負いがうかがえる。「できればこのざつしはみなさんの作った詩や作文で全部を埋めてしまいたいと思います。」と記したあと「みなさんの絵もいれたい」とあり、創刊の準備では子供の絵はじゅうぶんに集まらなかったのだろう。それに創刊時の『きりん』はまだ子供の絵の雑誌ではなかった。『きりん』が子供の絵と深い結びつきをもつ重要なきっかけとして、★吉原治良(1905~72)との出会いがある。『きりん』の編集実務をまかされた★浮田要三(1924~2013)が表紙絵の依頼で、吉原をたずねた。そのころ吉原は作品に子供の姿を描いたり、自身代表を務める芦屋市美術協会の主催で阪神間童画展覧会(1948年12月開催)の企画に携わるなど、子供への興味を強くしていたようである。
このとき具体美術協会は★まだ誕生(1954)していないが、吉原が『きりん』と出会うことで、のちに子供の抽象画が誌面を賑わす伏流となった。また浮田要三は吉原の誘いを受けて具体美術発足まもなくメンバーとなり、『きりん』編集者と同時に美術作家としてデビューする。阪神間童画展覧会はのち『きりん』とも関係する童美展に引き継がれるなど、あらゆる胎動は創刊の1948年前後に始まっていたといえる。(浮田は当時も美術作家として制作にとりくみ、童美展は2006年で56回目を迎えた。)梅田にあった★尾崎書房では毎日のように井上、竹中らが集まり、談論風発して『きりん』の贅沢な企画をたてた。新たな編集員に、ともに詩人で新聞社に勤める★足立巻一(1913~85)★坂本遼(1904~70)が加わり、子供の詩と綴方の雑誌として充実をみせる。だが、創刊一年を経ず維持困難となり休刊を余儀なくされた。廃刊の意見もでたが、社主はじめ編集実務の★星芳郎(1922~2004)、浮田要三から「淋しくてやりきれない」との声もあがり、制作費軽減の方針で判型を正方形に一新し『きりん』(第2巻2号/1949年6月)は復刊を遂げる。その後『きりん』は23年の長きにわたり通巻で220号を刊行する長寿雑誌となった。ただ1962年、版元を大阪から東京★理論社に移して以降の『きりん』は、雑誌の方針も性質もかなり異なるものとなり、ここでとりあげるのは大阪発の『きりん』のみに限る。理論社での9年を差し引いても、大阪から刊行された『きりん』は14年続いている。
足立巻一は「地方文化の渦<大阪>-童謡雑誌『きりん』の歩みから-」(『思想の科学』1954年11月号/講談社刊号)のなかで『きりん』の特色を4つあげて示した。
1、毎月確実に発行していること。
2、発行者が教育家でもなければ文学者でもなく、また出版屋でも金持でもない二人の青年だということ。
3、童詩の研究機関を各地に組織し、また『全日本児童詩集』3冊をまとめるなど、雑誌に並行して充実した仕事をしてきたこと。
4、商業性を少しも帯びず、店頭販売もせずに約4千の固定読者を持っていること。
2人の青年とは、創刊から『きりん』編集の実務をまかされた星芳郎と浮田要三にほかならない。足立はこの一文で二人が編集に携わる日常を詳しく描いた。すでに尾崎書房は解散し(1950)、その後『きりん』は編集兼発行人を星芳郎、発行所を日本童詩研究会に置いた。発行所名は堂々たるものだが訪れてみると「大阪の古い遊郭の一つ、松島新地と電車通り一つへだてた東側の、2坪のバラック」で「トタンぶき、板壁で物置小屋よりも貧相で、内部も板敷、折りたたみ式手製の寝台兼机が空間の半分以上を占め、板壁には活字ケースと手摺印刷機がもたせかけてある。」しかもここは星芳郎夫妻の住居でもあった(バラックは浮田兄の敷地にあり浮田夫妻は兄宅の2階借りをしていた)。2人の日課は朝からオートバイで分担を決めて近畿一円の学校を訪問してまわるのに始まる。行った先で子供をあつめて詩の朗読をし、先生たちと語りあい、児童作品を寄せてくれるように依頼し、『きりん』購読の予約を取りつける。浮田「まるで詩の行商人のようなものです。」おそく編集所にもどると夜9時までは編集事務にとりかかった。毎日をフル回転していても経営内容はおもわしくなく2人の収入は1950年頃で一人あたり月3千円ほどだったという。
足立巻一は星と浮田のことを「文学が好きだったことはひとときもない」「文学に経験を持ったことはないそうだ」「教育にも文学にも無関係の復員青年」「むりにいえば子供が好きで誠実だというぐらいで童詩の運動に適性があるとも思えない」と彼らの非インテリ性をしつこく揶揄する。その揶揄は2人が何度も廃刊の危機を乗りこえ、採算の見通しも立たない仕事に一切を賭けて『きりん』を出しつづけてきた畏敬の裏返しでもあった。彼らが健康な青年であり、たまたま従事した原稿集めや学校訪問の仕事での教師や子供たちとの繋がりを大切にし、勤勉で誠実でねばり強さを持ってこそできたと言いたかったのだ。「文学者だけで始まっていたらとっくになくなっていただろうし、出版屋ではソロバンがあうまい。やはり2人は絶対必要だったのである。」そうして子供のいる現場を日常とし、編集作業で何万という詩に目をとおし絵を見るなかで育まれたのは、子供の表現を的確に判断する目であったのだろう。詩、綴方の選評はそれぞれ竹中郁、坂本遼が担当したが、表紙、誌面のカットの絵は主に浮田が選んでいた。日本童詩研究会に発行所を移した1950年ころから誌面に子供の作品(図画工作というべきか)が多く採用され(稿料が不要という理由もある)、年を追うごとに抽象表現が目立ちはじめる。子供の描きそうな花や木、犬やライオン、お母さんの顔、家などといったモチーフはある時期にほとんど姿を消した。浮田が吉原治良を通じ★嶋本昭三(1928~2013)と出逢ったことも『きりん』の子供の絵の見方に指針をあたえた。1953年4月号所載の嶋本によるカットは浮田にとってかけがえのないものになった。嶋本はたくさんの紙反古に描いた抽象画を箱に入れて持ってきた。正直に浮田は彼の絵を理解できなかったそうだ。「こんなん紙くず屋でも横向いて通るで!」と思ったという。嶋本から作品を受けとると浮田は転げ回って笑った。その痛快な哄笑は心理、存在に触れ天に発したもののようだ。浮田は嶋本の絵との出会いをこう記した。「心のこもった旨い食べ物を食べた時のように、食べるにしたがって、その旨味が味わえるようになってきたのです。それも一時的な、思いつきの良さではなくて、軀全体をもちあげられる程の力強い感動を覚えました。」(LADS通信⑤2004年5月/LADS GALLERY)『きりん』には子供の作品にまじって、子供の表現と区別のつかない大人、多く具体美術の作家による作品が含まれている。美術作家として自身の芸術観に照らしながら子供の作品(図画工作)と対等に向きあい、子供の表現を考え、みちびき、ときに吸収して学びとろうとする姿勢をもっていたからであろう。わたしたちが、まだいちどもみたことがないようなかたちや色のつかいかたやぬりかたが、おもしろく、またうつくしくあらわされているもの、また、はじめからわからなくてもいつか心のそこにきざみこまれるようなわざとらしくない絵、それが絵のいのちだとわたしはおもっているのです。嶋本昭三「ひょうし絵について-絵と工芸-」(『きりん』第8巻1号/1955年1月)子供に「抽象」の概念があるのかどうか、と冒頭に書いた疑いは、初期状態の(たとえそうでなくても)子供に対して「絵とは何か」「なぜ絵を描くのか」と問うことが非論理的なのと同じかもしれない。そういうことを考えるのは大切だが、大人の理屈におちいりがちになる。それに『きりん』にはそうした疑いに対してためらいがない。『きりん』を作った二人の青年は芸術家ではなかった。だからこそ『きりん』のなかの子供のことば、絵、表現には、まだ解かれないまま、私たちの社会、引いては人間へとむけられる問いの形としてのこされているのではないだろうか。
・・・「アトリエUKITA」WEBサイトが、今も削除されず掲載されているのは、より多くの人々に「具体」そして「浮田」について伝えたいという熱い思い(私も同様です)からであると理解しています。この感動をそのまま、引用転載させていただきました。
《2008「きりん」の絵本》
1948年2月号から1962年5月号まで、合計166冊の表紙絵がカラーで収録され、『きりん』に深く関わりのある美術家、浮田要三さんの文章も掲載されています。本書は芦屋市立美術博物館学芸員の加藤瑞穂さんと、園田学園女子大学短期大学部講師&美術家の倉科勇三さん、そして浮田要三さんが中心となり、ポーラ美術振興財団と財団法人日本科学協会の助成を得て刊行されました。
★浮田要三「『きりん』の話」(『「きりん」の絵本』より)
「少数ではありましたが、頑固な『きりん』の支持者に支えられて星さんも浮田もなんとか『きりん』の刊行を続けてまいりましたが、打っても響かない現象は、ボクにはどうしようもないと考えて、ある日嶋本さんに止めようとするボクの心境を話しました。その時、嶋本さんから「浮田さん、役に立たない本をつくろう」と真顔でいわれたのには、ドギモを抜かれた想いがいたしました。考えてみれば、文化は眼前の事態に、すぐには役に立ちません。文化はそれ自体、金儲けもいたしません。それこそが文化であると、改めて悟ることができました。また嶋本さんがそんな大切なことを教えてくれたように思いました。まもなく駄目になるであろうと予測はしておりましたが、ボクは二年分の元気をもらいました。そして、その後二年間『きりん』をつづけました。「役に立たない雑誌」とは旨いこといわれたものです。そして、またボクの脳裡に思い出されたのが井上靖さんのコトバです。「世界でいちばん美しい雑誌をつくりましょうや」ということです。この嶋本さんの「役に立たない・・・」というコトバと、「世界でいちばん美しい」というコトバの間に違いがあったのでしょうか。ボクはそうは思っていません。嶋本さんのいう「役に立たない」というコトバは、それ以上純粋なものはないということで、それこそが、井上靖さんのいわれた「世界で一番美しい雑誌」と、思想において合致するわけです。『きりん』には、自由の思想と、哲学的なエゴイズムが一貫していたことで、人間の為し得る最も強い、悲しいけれども美しい魂の表現があったと考えております。」
・・・当時の様子がリアルに浮かんできてワクワクします、よって引用転載させていただきました。遅ればせながら、これら先達の足跡を追いかけてみたいと思います。まず、はじめに書籍や資料の収集からです。まず、「きりんの絵本」を入手しました。