病院アート(25) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《参考》メールマガジン「法円坂」No.161(2014/10/15)より

大阪医療センター院長:楠岡英雄

大村益次郎は、幕末期の長州藩の医師であり、また、兵学者であった方で、若い頃は村田蔵六と名乗っていました。明治維新における戊辰戦争等では長州藩兵を指揮し、勝利の立役者であったと言われています。明治維新後は、軍務を統括する兵部省の初代大輔(次官)を務め、日本陸軍の事実上の創始者と言われています。大村益次郎は、明治2年8月、京都に出張しますが、9月4日に京都三条木屋町の旅館で刺客に襲われ、重傷を負いました。しばらく、京都にて治療を受けますが、より設備の整ったところで治療を受けさせるということで、10月1日、大坂府医学校病院に転院します。転院後、左大腿部切断手術を受けるも、11月5日、敗血症により死去しました。大村益次郎が亡くなった大坂府医学校病院は、当院の現在の敷地にありました。当院の敷地の南東角の上町交差点に面したところに、「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」があるのもこのような由縁によるものです。大坂府医学校病院は明治2年に大坂府が創設した医学校と病院です。明治3年に大学(後の文部省)の管轄となり、明治5年には文部省による学制改革で廃止されてしまいます。しかし、明治6年、大坂府は有志から寄付を仰ぎ、本願寺津村別院内に大阪府病院を設立します。この病院が、その後、大阪府高等医学校等を経て、現在の大阪大学医学部に繋がっていきます。大坂医学校の跡地には、明治6年に帝国陸軍歩兵第8連隊が駐屯をはじめ、その後、第20連隊、第37連隊が同居するようになりますが、第8連隊、第20連隊は他所に移っていき、明治30年以降は第37連隊のみとなり、昭和20年8月の終戦を迎えることになります。一方、当院の前身である大阪陸軍病院は、大阪府河内長野市にあり、終戦とともに

厚生省に移管され、国立大阪病院となりました。その後、昭和22年に現在の地に移転します。すなわち、現在、大阪医療センターがある土地には、明治2年から明治5年までと、その後、昭和22年から現在まで、病院が存在していることになります。当院と大坂府医学校病院は、直接繋がっている病院ではありませんが、同じ土地で開業している(していた)ということで繋がっています。そこで、今回の「がん哲学外来」講演会を、大村益次郎記念と命名いたしました。その土地の縁の方を冠にいただくことが、この講演会のしきたりとなっているからです。ちなみに、「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」は、昭和15年に多くの方の寄付を得て建立されたものであり、碑の右側には大村益次郎の肖像のレリーフが、左には趣意書が置かれています。また、周囲には寄贈者のお名前が刻まれています。当院には、大村益次郎に係わるもう一つの縁があります。大村益次郎が広く世に知られるようになったのは、やはり、司馬遼太郎さんが大村益次郎の活躍を昭和47年に「花神」という小説に発表されたことによると思われます。「花神」は、司馬さんの多くの小説の中でも発行部数9位にランクされるほど、多くの方に好まれています。また、昭和52年のNHK大河ドラマに取り上げられたことで、大村益次郎の知名度も上がったと思われます。花神の著者である司馬さんは、平成8年2月10日深夜に吐血にて当院に救急入院され、吐血の原因が腹部大動脈瘤破裂であったため、残念ながら2月12日に当院にて亡くなられました。これが、当院における大村益次郎に係わるもう一つの縁です。大村益次郎本人と、その名を世間に広く知らしめた小説の著者である司馬遼太郎さんの双方が、同じ土地に建つ病院で亡くなられたことに、偶然とはいえ、因縁めいたものを感じてしまいます。このように、当院には二重の縁があるので、大村益次郎記念とさせていただいた次第です。

 

 

★この二人の花神に因み、国立大阪病院は『花神賞』を設けているそうです。

 

《1969年(昭和44)「花神」》著:司馬遼太郎

「適塾」という、むかし大坂の北船場にあった蘭医学の私塾が、因縁からいえば国立大阪大学の前身ということになっている。宗教にとって教祖が必要であるように、私学にとってもすぐれた校祖があるほうがのぞましいという説があるが、その点で、大阪大学は政府がつくった大学ながら、私学だけがもちうる校祖をもっているという、いわば奇妙な因縁をせおっている。江戸期もおわりにちかいころ、大坂で、「過書町の先生」といわれた町の蘭方医緒方洪庵が、ここで言う校祖である。

 

 

・・・「花神賞」そして大阪芸大・本多紀朗さんの作品「夢馬」も発見、何度も訪問してみるものですね。

 

《報道発表》2016.11.30

後期難波宮の朝堂院西方(国立病院機構大阪医療センター内)で初めて役所の建物群が見つかりました

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000382628.html

大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所は、平成28年3月末から実施してきた中央区法円坂の難波宮跡における発掘調査の成果を広く市民に公開するために、平成28年12月3日(土曜日)13時より、発掘現場の現地説明会を開催します。今回の発掘調査では、後期難波宮の朝堂院西方で、官衙(かんが)(役所)とみられる建物群と重要な施設を囲む区画施設の一部が見つかりました。後期難波宮の実務的な官衙(役所)は確実な発見例がなく、初めての発見です。区画施設は「五間門(ごけんもん)区画」と呼ばれている一画の南面の塀で、平安宮の豊楽院に当る位置にあり、重要な政務や儀式の場であったと考えられます。こうした発見によって後期難波宮の宮殿の構造の一端が明らかになりました。

 

・・・「大阪歴史博物館」に立ち寄りますと、「大阪医療センター」での発掘調査のことが掲示されていました。

 

 

・・・まもなく「成人病センター」が「国際がんセンター」になります。工事の進捗状況を観に行きます。途中、

 

《重粒子線がん治療施設》

大阪市中央区大手前3-3-8

◆着工:2015年8月7日◆竣工:2017年8月11日予定

http://www.opho.jp/publish/post-7.html

「重粒子線がん治療」は、放射線の一種である「重粒子線」で、がんの病巣をピンポイントで狙い撃ちする治療です。「重粒子線」は、エックス線よりも質量が重く、破壊力の強い「重粒子線(炭素イオンなど)」を光速の7割にまで加速させ、体の表面から照射し、体内のがん細胞を死滅させます。切除手術を必要としないため患者への負担が少なく、高齢者や長期休職が難しい人も通院治療が受けられます。「地方独立行政法人大阪府立病院機構」が整備する「重粒子線がん治療施設整備運営事業」は、公募型プロポーザルで「医療法人協和会」が代表事業者を務めるグループが事業者に選ばれています。構成事業者は「グリーンホスピタルサプライ」、協力事業者は「日建設計、鹿島建設、日立製作所(東芝から変更)」となっています。

 

 

★地方独立行政法人大阪府立病院機構「大阪国際がんセンター」

絵画の公募について~アートな病院の展開~

http://www.mc.pref.osaka.jp/hospital/news/detail.php?newsId=445&ls=8

このたび、大阪府立成人病センターは、平成29年3月末に「大阪国際がんセンター(以下「新センター」という。)」として移転・オープンするのに伴い、「患者様の視点にたったサービスの提供」の一環として、患者様の癒し(精神的ストレスの軽減)となる環境を整え、併せて大阪府の協力の下、新進芸術家を発掘するため、絵画の公募を行います。公募期間は平成28年11月28日~平成29年1月31日までです。今回の公募は、新センター2階外来に「ホスピタルストリート」を設け、横6.5m×縦2.5mの巨大なキャンバスに絵画を募集するもので、審査委員には、建畠晢先生(多摩美術大学学長)、秋元雄史先生(東京藝術大学教授・大学美術館長)にお願いしています。なお、入選作品1点については200万円で買い取り、この財源については当センターの寄付金を充てることとしています。併せて大阪府が所蔵する★「大阪府20世紀美術コレクション」の数々の作品も新センターで積極的に展示する「アートな病院」の展開をめざしていきます。

 

・・・オープンが楽しみですねえ。

 

 

《NEWS》2016.12.2毎日新聞より

大阪府庁舎90年/耐震工事完了、移転・建て替え泡と消え

大正時代に建てられ、現役の本庁舎としては全国の都道府県で最も古い大阪府庁本館(大阪市中央区、地上6階・地下1階)が完成から90年を迎えた。装飾の少ないモダンな外観や大理石の吹き抜けの階段が特徴で、映画やドラマのロケにも度々使われてきた。建て替えや移転計画も浮上したが、3年にわたる耐震補強工事が近く完了し、府民らに全面公開される。 3代目の府庁舎として1926(大正15)年10月31日に完成した。戦時中は空襲に備えて屋上に厚さ60~70センチのコンクリート板が置かれたほか、カムフラージュ用の網をかけたという記録も残る。戦後は増築が繰り返されたが部屋数が足りなくなり、80年代後半には執務室が近隣の民間ビルなどに分散。老朽化も進み、建て替え計画が浮上した。いったん建築家・黒川紀章氏のデザインが採用されたが、バブル崩壊で計画は白紙になった。財政難で大規模修繕が行われないまま、2006年には震度6強~7程度の地震で倒壊の恐れがあることが判明。08年に当選した橋下徹大阪府知事(当時)は湾岸部の現咲洲庁舎(同市此花区)への全面移転を掲げたが、東日本大震災で同庁舎が損傷したことなどから断念し、13年11月から耐震改修工事が始まった。仮庁舎を設けず、工事期間中も本庁舎で業務を続けるため、各部屋を順番に改修。職員らは大量の書類などとともに部屋を何度も引っ越すことになった。基礎工事などは騒音が出るため、昼間の執務時間を避けなければならず「工事のスケジュール管理が大変だった」(担当者)という。建物の地下に233台の免震装置を設け、壁を厚くすることで震度7程度の地震にも耐えられるようになり、内装や空調、照明も一部新しくした。工事は15日に完了予定で、府は17、18日に計160人を招待して記念イベントを開き、その後も来庁者の見学を受け付ける。府庁舎周辺整備課の石塚なぎさ参事は「工事が終わればいろいろな場所を見てもらえる。多くの人に現役で頑張っている歴史的建築物の雰囲気を味わってほしい」と話している。

 

・・・大阪府庁の耐震工事も完了、あらためてゆっくり見学に来たいと思います。