〇奉献塔山古墳
駒ヶ谷の丘陵上にある古墳です。古墳は近接して二基あり、その間に★宝篋印塔という石製の塔が建っています。二基とも横穴式石室をもつ直径約10から20mの小規模な古墳です。すでに石室の大半が破壊されていましたが、1950年(昭和25)に発掘調査が実施され、凝灰岩製の石棺の破片や豊富な副葬品が発見されました。副葬品には、須恵器や土師器の他、青銅製の椀や馬具、刀装具、飾履などの破片が出土しています。とりわけ、炊飯具をかたどったミニチュアの土器は、渡来系の人達の風習と関連するものとして注目されます。二基の古墳は、出土した副葬品の特徴から6世紀末ごろに築造されたものと考えられています。飛鳥千塚古墳群の中では比較的豊富な副葬品が発見された古墳として重要です。
・・・小高い葡萄畑丘陵の頂上に「宝篋印塔」が姿を現し、景色そのものが感動です。
《参考》「宝篋印塔」
滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。形状がシンプルな五輪塔が僧俗を問わず多くの階層で用いられたのに対して、装飾性の強い宝篋印塔は主に貴顕の間で用いられる傾向がある。石造宝篋印塔のような石造美術品、特に中世期のものを見るうえで、律宗僧及びその関係の石工たちの存在に注目しなければならない。中世期は、平安期に比べて石造美術品の造立数は格段の数となり、奈良の西大寺の叡尊や忍性といった律宗僧の戒律復興運動の全国展開により、彼らが招いて、率いた石工たちにより、優れた石造美術品が残された。特に先に触れた「箱根山宝篋印塔」に大和生まれの石工大蔵安氏の名が永仁四年(1296年)銘とともに残されていることは注目に値する。現在も律宗系寺院または律宗系寺院の廃寺の跡においては、このような石造美術品が多い。
〇鉢伏山西峰古墳
鉢伏山( 標高211.5m) より西に大きく張り出した尾根上、標高135m に単独で位置しています。昭和44 年に故★三木精一氏によって発見されました。周辺には飛鳥千塚古墳群をはじめ大谷古墳群、五十村古墳群、誉田山古墳群などの横穴式石室を内部主体にもつ後期古墳群や鉢伏山南峰古墳、観音塚古墳、オウコ8号墳など横口式石槨をもつ終末期古墳が分布しています。本古墳は、平成5年度の霊園墓地拡張造成工事によって調査が行われました。調査前にはすでに墳丘の盛土は流出し、石槨が露出している状況でした。調査によって、墳丘は二段に築かれ東辺約12m、西辺約20m の方墳で、墳丘背後には周濠が伴うことがわかりました。埋葬施設は横口式石槨と呼ばれる特殊な構造で、棺を納める石槨部は基盤層である安山岩の岩盤をくり貫いて造られていました。出土した遺物には、須恵器や土師器の他、塼と呼ばれる茶褐色の板状を呈した珍しいものも発見されました。これら出土した遺物から7世紀中ごろに古墳が築造されたことがわかりました。横口式石槨は、韓半島、三国時代の高句麗、百済地域の強い影響を受けたと考えられています。渡来人と密接に関係したお墓であると言えます。現在全国でも90 基しか類例のないこの希少な埋葬施設は、その約75% が南河内・大和地域に集中しています。そのような貴重な古墳が羽曳野市内には13 基も存在していますが、見学できるものはごくわずかで、鉢伏山西峰古墳は、数少ない見学できる古墳として、はびきの中央霊園内に整備・保存されています。
・・・まさか「霊園」の中に古墳があるなんて、思ってもみませんでした。さて、「三木精一」さんについて調べましたが、なかなかヒットしません、引き続き調べているところです。
〇観音塚古墳
鉢伏山から派生する尾根の上、標高★98mに位置しています。以前はぶどう畑として利用されていましたが、1981年(昭和56)に国史跡に指定され、現在では石槨内を見ることができます。古墳は大きさが約12mの円墳か方墳で、高さは約2.5mを測り、北および西側には濠と考えられる凹地が見られます。また内部には、石英安山岩を利用した切石の横口式石槨が営まれ、それに前室と羨道が南側に取りつきます。埋葬施設は、周辺で産出する石英安山岩の切石を組み合わせた横口式石槨で、石槨部、前室、羨道で構成されている。石槨部は身と蓋の2石で構成され、天井石の内側を屋根型に整形しており、家形石棺の内側の形状と共通する。石槨部の規模は、長さ1.93メートル、幅0.92メートル、高さ0.78メートルで南小口には幅60センチ、高さ64センチの横口部を設け、扉をはめ込む段が造り出されている(扉石は亡失)。前室では、石槨部入口に密着して、石槨部の床面に高さを合わせた切石が据え置かれている。前室入口は階段状の敷居石が設置された後、柱状の石材を両側に立て、その上に梁石を架け渡しており、ここにも扉がはめられていたようである。前室の壁面は東面に7石、西面に8石の切石をモザイク状に組み合わせ、★隙間がほとんどない。こうした高度な石積み技術は、周辺の★オーコ8号墳、鉢伏西峰古墳にも認められ、朝鮮半島に技術的系譜を求める見解があり、石槨部の構築には高麗尺が用いられたという説もある。埋葬施設は明治以前から開口しており、副葬品については不明である。
・・・ちょっと足がすくむような、丘の上にあります。もちろん景色はいいのですが、スゴイところにお墓をつくるもんです。
・・・この古墳は以前にも訪れていますが、見落としていたものを確認しました。それは「江戸時代の落書き?」、ありましたが読めません。さらに、「オウコ古墳」を遠望しました。ビニールハウスに覆われており、さっぱりわかりません。
〇オウコ8号墳
市域東部の寺山から南西に伸びる尾根の頂上には小規模な古墳が群集しており、オウコ8号墳はこの中に存在します。一辺または直径約20mの方、あるいは円形の墳丘をもつと考えられ、内部には精巧に加工した平らな石材を用いた横口式石槨があります。石槨部の前には長大な羨道をもち、石材の間には漆喰が見られます。また、羨道入口の両側壁の前面は約60°の角度で斜めに加工されており、築造当初には墳丘斜面に沿って露出していたのではないかと考えられています。入口の天井石に彫られた横方向の浅い溝は扉をはめ込むためのものでしょう。石槨内から若干の土器が見つかっており、これらの特徴から7世紀中葉に築造されたと考えられています。