・・・グレープヒル(2)のブログで、次のように記しました。
〇鉢伏山西峰古墳
鉢伏山( 標高211.5m) より西に大きく張り出した尾根上、標高135m に単独で位置しています。昭和44 年に故★三木精一氏によって発見されました。周辺には飛鳥千塚古墳群をはじめ大谷古墳群、五十村古墳群、誉田山古墳群などの横穴式石室を内部主体にもつ後期古墳群や鉢伏山南峰古墳、観音塚古墳、オウコ8号墳など横口式石槨をもつ終末期古墳が分布しています。
・・・古墳を発見した「三木精一」さんのことが気になって、いろいろ調べましたが、ネット上には《野中寺近傍出土の古瓦について》《野中宮山古墳の埴輪》《考古学にロマンを求めて : 三木精一氏収集考古遺物展》《覚峰と河内古代史》などのタイトルだけで、肝心の内容・三木さんのプロフィールがまったくわかりません。手掛かりは、それらの図書資料を探すしかないわけです。まず、
《中公文庫「日本の渡来文化」》出版: 中央公論社(★1982年9月10日)
本書は、伝説の雑誌★「日本のなかの朝鮮文化」の座談を収録したものです。
■「王仁系氏族とその遺跡」
金達寿・★三木精一・森浩一・直木孝次郎
河南台地に単独で営まれた金山古墳や御旅所古墳は、丘陵の群集群に対し、やや性格が異なる被葬者像が推定されてきた。ところが、先に示したとおり、金山古墳北方で発見された石塚古墳群を考慮すれば、金山古墳周辺にも墓域が広がる可能性があり、被葬者集団の推定はさらに複雑な様相を示す。被葬者集団の手がかりとして、注目されるのが★三木精一氏や直木孝次郎氏による「地名考証」である。王仁の子孫と伝承する西文首・蔵首・馬史等の氏族が、石川郡に本貫をもち、これらが物資の記録(西文首)・保管(蔵首)・運搬(馬史)などにたずさわった可能性である。古墳の北東にひろがる「馬谷」の地名は、石川を通じで河内から大和に物資を運搬する集団が飛鳥時代にかけて活躍したのではないか、と考えられる。また、河南台地の「馬谷」と金山古墳は、羽曳野丘陵の「駒ケ谷」と蔵塚古墳に共通する要素があり、馬匹生産に関わる渡来系氏族に由来するのかもしれない。
・・・同様の本ですが、図書館で初版「単行本」を見つけたので念のために見てみますと、こちらにはそれぞれのプロフィールが記されているではありませんか。
《「日本の渡来文化」》出版: 中央公論社(★1975年6月30日)
■「王仁系氏族とその遺跡」
金達寿(作家)・★三木精一(大阪府文化財愛護推進委員)・森浩一(同志社大学教授)・直木孝次郎(大阪市立大学教授)
《参考》大阪府文化財愛護推進委員
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/aramashi.html
本府の貴重な文化財を保護するため、★「文化財愛護推進委員」を委嘱し、文化財愛護思想の普及啓発と監視、防災等の地域活動を行うとともに、文化財所有者との連絡調整、文化財資料の整備充実、府有史跡の環境整備に努める。
・・・同じ本でも「念のため」、が重要だと痛感しました。
《日本のなかの朝鮮文化》発行:朝鮮文化社/編集発行人:鄭詔文
1号~50号/発行:1969~1981
【鄭詔文】
1918年慶尚北道醴泉生まれ。1960年代に実兄鄭貴文とともに★「朝鮮文化社」を設立、季刊『日本のなかの朝鮮文化』を50号まで発刊。1988年10月に朝鮮古美術品約1700点と建物を財団に寄附し、「高麗美術館」を設立。1989年2月肝不全のため永眠。享年70歳。
《参考》廣瀬陽一HP
総目次:日本のなかの朝鮮文化
http://srhyyhrs.web.fc2.com/k4-ni1.html
■18号(朝鮮文化社★1973年6月25日)
無著名「誌上・朝鮮美術館」
菊竹淳一「対馬の朝鮮系仏像彫刻」
松下隆章「李朝絵画と室町水墨画」
金達寿・★三木精一・森浩一・直木孝次郎「座談会・王仁系氏族とその遺跡」
田辺尚雄「日本の高麗楽についての疑義」
鄭詔文「李朝の陶磁展──私の古美術散歩」 ※題字・司馬遼太郎
編集部「初夏の大和飛鳥──第三回日本のなかの朝鮮文化遺跡めぐり」 ※現地レポート
李進熙「広開土王陵碑のこと」
松本良子「表紙写真について 西淋寺塔礎石」 ※撮影・井上博道
書評紹介(『京都新聞』1973.1.15、『朝日新聞』1973.3.19、『読売新聞』1973.3.5、『週刊朝日』1973.4.6号)
《考古学の先覚者たち》編★森浩一/出版: 中央公論社 (★1985年5月20日)
■「覚峰と河内古代史」(「歴史と人物」昭和57年4月号)文★三木精一
・・・この本には、『明治38年生まれ。現在、羽曳野市市史編纂委員、大阪府羽曳野市在住。』と三木さんのプロフィールが記されていました。
《参考》追悼と巡礼「司馬遼太郎」
http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/index.html
この国の周りの国のかたち
http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/japan/index.html
座談会『日本の朝鮮文化』司馬遼太郎・上田正昭・金達寿
http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/japan/korea_1.html
司馬遼太郎が上田正昭と金達寿の三人で古代日本の朝鮮文化の問題について検討を重ね、その成果を雑誌『日本のなかの朝鮮文化』に誌上座談会として発表し始めたのは1971年からです。この三人にゲストを加える形で座談会は78年まで延々と続き、その記録は、中公文庫の『日本の朝鮮文化』『古代日本と朝鮮』『日本の渡来文化』『朝鮮と古代日本文化』の4冊となって残っています。これに、後の韓国知識人を交えた座談会記録である『日韓理解への道』『日韓ソウルの友情』の2冊を併せて、司馬遼太郎の韓国朝鮮座談シリーズ全6冊。司馬遼太郎の生涯の創作事業については、『竜馬がゆく』等の歴史小説群と、『街道を行く』の紀行文と、晩年の『この国のかたち』などの文明批評という三つのカテゴリーに分類されるのが一般的ですが、この韓国朝鮮研究会は、第4番目の創作事業として考えてもよいかも知れない。著されたものの分量が多く、多量のエネルギーが注がれている。『街道をゆく』の第2巻『韓のくに紀行』と第28巻『耽羅紀行』もその一部を成している。ライフワークと言われる『街道をゆく』そのものが、実はこの朝鮮文化研究と無縁ではなく、『街道をゆく』の連載が週刊朝日に始まったのは、同じく★1971年であり、しかも第1回の『湖西のみち』は、近江路に古代日本の朝鮮文化の痕跡を発見しようとする旅でもあった。『街道をゆく』は日本人の原点を探ろうとする旅であり、日本人のルーツを探し求める紀行文として出発している。そしてその問題意識は、まさに日本人の祖先が間違いなく朝鮮半島からやって来た ものだという認識、ルーツが半島にあるという確信、すなわち司馬遼太郎なりの日韓同祖論に動機づけられていると言っても過言ではない。『街道をゆく』の第2巻において、早速、韓国へ飛ぶ由縁である。
★司馬遼太郎「街道をゆく」公式ページ
http://publications.asahi.com/kaidou/
『街道をゆく』は「週刊朝日」の連載として★1971年に始まり、司馬さんが亡くなる1996年まで、25年にわたり続きました。こうして残されたのが、書籍にして全43巻を数える大紀行『街道をゆく』です。司馬さんが辿った街道は、国内は北海道から沖縄まで、そしてアイルランド、オランダ、モンゴル、台湾などの海外へと及んでいます。日本民族と文化の源流を探り、風土と人々の暮らしのかかわりを訪ねる旅。日本の来し方行く末を見定めるために、今こそ読みたい司馬さんのライフワークです。
■「韓のくに紀行」
http://publications.asahi.com/kaidou/02/index.shtml
司馬遼太郎は、古代の朝鮮を体感しようと、韓国の農村を巡る旅に出た。釜山の龍頭山では、李舜臣の像を見て、祖国を救った海将に敬意を表する。釜山の近郊の金海では、金氏の祖廟・首露王陵を訪ね、拝礼する人々を見て、李朝という儒教国家が続いているような思いにとらわれる。慶州郊外の仏国寺では、万葉集に出てくる「歌垣」を想わせる野遊びに出会い、またその近くの掛陵では、これも古代を連想させる老人たちの酒盛りに合流する。大邱近郊の友鹿洞(友鹿里)という村では、秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮に投降した武将の実在を実感することができた。百済の旧都・扶余では、古代日本と百済の関係や白村江で散った兵士たちの心情に思いを馳せる。
・・・三木精一さんを調べて、「司馬遼太郎」さんに突き当たりました。やっぱ「竹内街道」なんです。