・・・「関西文化の日」パンフをながめていたら、知らなかったミュージアムを発見。少々コウフン気味に、早速行ってきました。
・・・以前にも「南海平野線」関連で紹介しましたが、幼少の頃より「針中野」界隈を何度も行き来してきました。「はりなかの」に親しんできました。その鍼灸院にあるという「遂穴偶像」を見てみたいと、ずっと思っていました。人形の持つ魔力というか魅力というか、「四谷シモン」さんも大好きです。
《参考1》エコール・ド・シモン
151-0051東京都渋谷区千駄ヶ谷3-5-4/03-3402-9488
《参考2》中野のはり(中野村小児鍼)
546-0011大阪市東住吉区針中野3-2-17/06-6702-7673
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033874.html
中野鍼灸院は平安時代の延暦(782~805)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号です。平安時代から★一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っています。43代目中野一氏の言によれば、以下のような長期にわたる経歴がわかります。初代の治平氏は延暦20年(801)生まれ、平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す★「遂穴偶像」(スイケツグウゾウ) (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されとのことです。その木像は現在も中野家に伝えられています。3代目主禮氏は年度が不明ですが、旧暦満月の8月15日に開業されたので、「月見の鍼(はり)」と呼ばれ、今もその治療に訪れる人が多いといわれています。南北朝の頃に、足利軍の戦火により屋敷を焼失したが、大師伝授の木像2体と鍼と漢方薬書が残り、今日に至っているとのことです。宝暦13年(1763)発行の摂津平野大絵図にも、中野村小児鍼師と記されています。明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていました。大正3年に★南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられました。南海平野線が廃線された以降、現在も旧中野駅跡地に道標が残されています。大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年の開通時には最寄りの駅名を★「針中野」としたといわれています。現在も駅名が継続され、地名となって残っています。当時では珍しく遠くから見えた3階建ての塔屋敷は、老朽化したために昭和50年に取り壊されました。
《森ノ宮医療学園専門学校》
537-0022大阪市東成区中本4-1-8/06-6976-6889
1973年、時代を代表する★7人の臨床家によって創立。優れた臨床家は、優れた臨床家によって生み出されます。 医療現場の第一線で活躍する講師陣が「臨床」の理念をあふれる情熱とともに伝授します。
本校舎は、地下1階・地上7階の機能的な都市型構造。教室や実習室だけでなく、学生ホールやはりきゅうミュージアムなどのパブリックスペースを多く取っており、仲間とともに楽しみながら学べる環境を整えています。すべての教室に最新の視聴覚設備を備えるなど、教育効果が高まる工夫を随所に施しています。
・・・「7人の臨床家」といところが、カッコイイですね。
★3階「はりきゅうミュージアム」
http://www.morinomiya.ac.jp/schoolguide/museum
「はりきゅうミュージアム」は、広く鍼灸医学の発展に寄与したことから「間中(まなか)賞」を受賞するなど、国内外から注目を集める希少な資料の宝庫です。そのコレクションは、鍼灸を主とする伝統医学を対象としており、経絡・経穴を記した銅人形や明堂図を中心に、鍼灸・漢方・柔道整復にまつわる道具や看板、浮世絵、書物など、重要かつ貴重な資料を展示・公開しています。これらは「伝統医学への理解を深めてもらいたい」、「伝統医療のルーツをたどることで鍼灸・柔道整復の研究に役立てたい」との思いから、学園創立以来40年にわたり収集し続けてきたものであり、日本における東洋医学の歴史を今に伝えてくれます。
《参考3》漢方医列伝「丹波康頼」(912~995?)より
http://www.wellba.com/wellness/doctor/contents/99301/doc7.html
丹波 哲郎氏のご先祖様(?)、初めて日本の医家の登場です。中国では先史時代から伝説上の神農にはじまって、名医伝や名医の著作が残っていますが、日本では平安時代以前には、医学書はあったのですが、残っていません。正倉院に保存されている薬物を見ても、奈良時代あるいはそれ以前から薬や医方がおそらくは仏教の伝来などにともなって流入してきたことは確かなようです。遣隋使や遣唐使が制度化されてからは、これまでの「列伝」にとりあげたような医人の著作は、間違いなく全部輸入されています(※)。もっとも中国でも日本でも当時の医学書にあるような漢方医学の成果を享受できたのは貴族階級の上層部の一部だけで、一般庶民は無関係だったことはいうまでもありません。奈良から平安(京都)へ遷都されたのが794年です。平安時代がスタートしてから百年目の894年に遣唐使の制度が中止されます。そのせいでしょうか、日本で医書がいくつか書かれます。「大同類衆方」などですが、現存するのは丹波康頼の「医心方」全30巻のみです。この医学書は、これまでのシリーズで紹介した本のなかでは、隋末唐初の巣元方「諸病源候論」を土台にしており、引用文献は80冊の多きにわたっています。ここに引用されている書物には、中国ではすでに亡佚したものが多く、文献学的にもたいへん貴重なものです。
《参考4》重要文化財「銅人形」江戸時代・17世紀
/寄贈:松平頼英/蔵:東京国立博物館
江戸時代前期には、紙製や木彫りの人形に経絡を引き、経穴(俗につぼ)を点して学習する方法が確立した。この種の人形は「銅人形」とよばれ、永和4年(1378)に竹田昌慶によって明からわが国にもたらされたといわれている。経絡とは、鍼灸治療の基礎になっているもので、人体にある経脈のなかを気血が循環して生理機能をつかさどっており、その脈に属する経穴に鍼灸を施すことで治療を行うという、中国医学の基本を構成する重要な概念の一つである。この銅人形は、足裏に記された銘文によって、寛文2年(1662)、和歌山藩医であった飯村玄斎(?~1699)らが考証にあたり、岩田伝兵衛らが制作に関わったことがわかる。構造は、体の表面を銅で網目状に鋳造し、体内には木製で着色を施した五臓六腑と木骨を納めており、網目を通して内部の様子が透けてみえるとともに、前後と後頭部の三か所にある開閉式の窓により体内が観察できる。木骨の形状などから、当時の西洋医学の知識を結集したものではないかと考えられる。同様の銅人形は、ドイツのハンブルグ州立民俗学博物館にも所蔵されており、その足裏の銘文から寛文9年(1669)に飯村玄斎が関わって制作されたことが知られる。なお、収納箱の蓋に貼付された覚書によると、寛政9年(1797)に幕府奥医師の山崎宗運が閲覧するに際して、修理が行われている。本像は、明治10年(1877)3月に、旧伊予西條藩主であった松平頼英より内務省博物局(東京国立博物館の前身)に寄贈されたものである。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1737
・・・予想をはるかに超える素晴らしい展示の数々に、コーフン冷めやらぬままミュージアムを後にしました。さて、これからどこへ行こうか。