・・・秋ですから「紅(黄)葉」のお寺へ、「黄葉」になった銀杏とそうでないイチョウがありました。
《観音寺》
547-0044大阪市平野区平野本町4-7-19/06-6791-0212
銀杏山大慈院と号し、本尊は十一面観音菩薩で、816年(弘仁7)広野麻呂慈心大姉の開山である。古来真言宗であったがその後浄土宗にかわり、元禄七年に本堂を再建し、表門を建立し、大正2年に本堂は大修理し庫裡を改築した。銀杏の観音として銀杏の大樹とともに名所の一つとなっている。
・・・さらに1週間後訪問しましたが、やっぱり「黄葉」になってないので、お寺の方に尋ねました。そして「雌雄なんですよ」と教えていただき、さらに調べました。
《参考》「イチョウ(銀杏、公孫樹、鴨脚樹」学名:Ginkgo biloba
裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属に属する、裸子植物。繁殖力が強く人為的に広く栽培・植樹されており、現存する唯一のイチョウ綱で、★生きている化石としてレッドリストの絶滅危惧IB類に指定されている。中国原産。街路樹など、全国で普通に見かける樹木だが、分類上は奇異な位置にあり、例えば広葉樹・針葉樹の区分では如何にも広葉樹に該当しそうだが、むしろ特殊な★針葉樹にあたる。イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて世界的に繁栄し、世界各地(日本では山口県や北海道)で化石が出土しているが、氷河期にほぼ★絶滅し、イチョウは唯一現存する種である。宋代の中国で、欧陽脩が『欧陽文忠公集』に書き記した珍しい果実のエピソードが、確実性の高い最古の記録と見られ、その記述に依れば原産地は現在の安徽省と推測される。その後、食用、観賞用、材用として栽培され、現在に至ると考えられている。
樹高20~30mの落葉高木。葉は扇形で葉脈は原始的な平行脈を持ち、二又分枝して付け根から先端まで伸びる。基本的に葉の中央部は浅く割れるが、栽培品種では差異が大きい。★雌雄異株で、葉の輪郭で雌雄を判別できるという★俗説があるが、実際には生殖器官の観察が必要。受精によって胚珠は成熟を開始し、11月頃に種子に熟成する。被(果肉)は軟化しカルボン酸類特有の★臭気を発する。
樹木としては長寿で、各地に幹周が10mを超えるような巨木が点在している。また、落葉前の葉は鮮やかな黄色に黄葉し、並木道などでは風物となることも多い。ラッパ状の葉を付けたり(ラッパイチョウ)、葉に実がつく(お葉付きイチョウ)品種などの差異も見られる。 根の張り具合によっては枝から円錐形の突起(気根、乳と呼ばれる)が垂れ下がる。これは乳イチョウと呼ばれ、安産・子育ての信仰対象(★鬼子母神など)とされる。
《光永寺》
547-0044平野区平野本町1-5-13/06-6791-0179
鷲谷山と号し、本尊は阿弥陀如来で明応5年(1496)坂上田村麻呂の後裔釋明鎮の創建、平野御坊の名が許されていたが明治5年旧に復して光永寺と改称した。大坂夏の陣で本堂が焼失したが再建なり、昭和20年終戦後現在の収蔵庫が新築された。
★平成11年度大阪市指定文化財「光永寺真宗関係史料一括(10幅)」
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000012431.html
光永寺は、中世自治都市として著名な平野郷に所在する真宗本願寺派の寺院である。本願寺10世門主証如が記した『天文日記』に光永寺の名が頻出する。中でも天文5年(1536)6月15日の記事は重要で、大坂本願寺の造営のために、「平野衆」と呼ばれる光永寺の門徒200人が大坂へ手伝いに来ている様子が記されている。16世紀前半には、光永寺が平野郷の中で確固たる地位を確立しており、多数の門徒衆を抱えた大きな勢力であったこと、また本願寺教団にとって摂津南部、河内方面の重要拠点となっていたことがわかる。光永寺には16世紀代の4点の画像が伝来している。最も古いものは親鸞画像で、天文6年(1537)に証如が光永寺の僧明祐に下付したという裏書を伴っている。この裏書には本願寺9世門主実如の証判も記されている。また、天正17年(1589)の本願寺11世門主顕如による修復の裏書もある。この他に、3幅の16世紀代の画像が伝来している。それは元亀3年(1572)に顕如が裏書した証如画像、天正16年(1588)に顕如が裏書した七高祖画像、文禄4年(1595)に本願寺12世門主准如が裏書した顕如画像である。さらに関連する光永寺文書がいくつかある。天正10年(1582)と文禄5年(1596)の光永寺4世の僧明春に対して宮中から官位を与えた口宣案2通や、永禄2年(1559)の明春の法名書、慶長7年(1602)の光永寺5世と思われる明琇の法名書がそれぞれ1通伝来している。現在も残る町割をはじめとして、江戸時代の平野郷を考える史料は多いが、大坂の陣以前の平野郷の様子を語る史料は少ない。16世紀代の平野郷において、多数の門徒衆を従えて大きな勢力となっていた光永寺に、16世紀代の史料がまとまって残ることは貴重である。
《参考1》浄土真宗本願寺派「岸松山・教専寺」
580-0006松原市大堀町260/072-332-0719
http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,123,51,260,html
京都・西本願寺に、寛政4年(1792)ごろの「河内国末寺帳」が所蔵されています。龍谷大学内の本願寺史料研究所で同帳を閲覧させていただいたところ、丹北郡の項でやはり「大堀村惣道場教専寺」と書かれていました。もっとも、大堀村の家々の中には、教専寺を聞法道場として信仰しながら、摂津の慈明寺(茨木市)や★光永寺(大阪市平野区)といった真宗寺院の門徒になる人々もいました。慈明寺は、南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた安満了願が摂津国島上郡磐手村(高槻市)に開基したものです。江戸時代前期に現在地の島下郡下穂積村(茨木市)に移り、末寺30カ寺を有しました。光永寺は、戦国時代の明応5年(1496)に建てられ、寛永3年(1626)以後、西本願寺の兼帯所として平野御坊の称を賜り、末寺10カ寺を持っていたと伝えられています。
《参考2》浄土真宗本願寺派「瀧光寺」
558-0004大阪市住吉区長居東1-5-3/06-6692-8293
http://ryuukouji.jpn.org/index.html
★平野の光永寺
天文8年3月15日付の日記に「河州堀者〔光永寺下〕」が登場します。分布図の摂津国の住吉郡に「堀」という地名があります。この光永寺というのは、現在も大阪市平野区平野本町1丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院で★『天文日記』によく登場し、天文5年(1536年)6月15日の日記には、「平野衆」と呼ばれる光永寺の門徒200人ばかりが大坂の本願寺の普請にきたことが記されています。『大阪府全志』と『東成郡誌』によると、光永寺は蓮如上人が石山坊舎を建てたのと同じ明応5年(1496年)の創立(開基は坂上田村麿の後裔釈明鎮)となっています。その後、石山合戦の功により本山兼帯所として「平野御坊」の称を許可されていましたが、明治5年(1872年)にもとの光永寺に改称しました。
★河内国の堀の者
この光永寺門徒の「河州堀者」は「河内国の堀の者」の意味ですが、どうして『大名領国と本願寺教団』や『大阪の町と本願寺』の分布図では「摂津国住吉郡」に図示されているのでしょうか。『応仁後記』巻之上「河州正覚寺城合戦畠山政長自害事」(『改訂史籍集覧』第3冊、1900年、近藤瓶城編)には、「河州正覚寺城」「河州平野城」とあります。正覚寺城(大阪市平野区加美正覚寺)は、河内国守護の畠山政長が陣をおいた場所で、明応2年(1493年)に摂津など4ヵ国の守護の細川政元の軍に攻められて戦死し、足利義材(義稙)も細川政元によって将軍職を追放されました。『平野郷町誌』(1931、平野郷公益会)に掲載されている宝暦13年(1763年)の「摂州平野大絵図」を見ると、平野郷町内の北東部を摂津国と河内国の境界となっている平野川(東除川)が流れており、対岸の河内国渋川郡賀美郷に正覚寺(廃寺)が描かれています。中世の自治都市として発展してきた平野は、本来は摂津国の住吉郡に属しているのですが、中河内地域の交通や流通の中心として河州として認識されることもあったようです。
《参考3「天文日記」》
http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/158511
本願寺第10世★証如が21歳の天文5年(1536)正月から天文23年8月、39歳で亡くなる10日前まで(14・19年を欠く)19年間の日記である。内容は日次に記された本記の外、音信日記等の別記から構成されている。本日記には本願寺の行事や、末寺・門弟との往来、宮廷や公家・大名・町衆等と交渉が具体的に記され、石山本願寺の勢力拡大や、本願寺を通して当時の世相が窺われ、室町後期の根本史料として貴重である。
《参考4》本願寺第11世「顕如」(1543~1592)
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/035.html
戦国時代さなかの天文12年(1543)、顕如は、本願寺第10世★証如の長男として生まれた。祖父は早世した円如(1491~1521)、曾祖父は第9世実如(1458~1525)、高祖父は第8世蓮如(1415~1499)である。歴史を遡れば、蓮如は「仏法領」(信仰に関する領域)以外は関知しない政治不介入の立場であったが、実如は教団ぐるみで細川政元(室町幕府第11代将軍足利義澄の官領)方に旗幟を明らかにし、一揆に参戦した。実如より宗主を引き継いだ証如は、幕府との関係を深めるが政争に巻き込まれ、天文元年(1532)、山科本願寺は日蓮宗徒、京都住民、細川晴元(政元の養子澄元の子)などにより焼き払われた。そこで証如は、同2年(1533)に祖像を山科本願寺から大坂坊舎(1496年に蓮如が建立)に遷座し、ここを大坂(石山)本願寺とした。寺域は現在の大阪城の敷地全域をほぼカバーし、寺内町も発達していたといわれている。
・・・うちは「檀家」なんですが、もっともっと勉強しないとダメですね、お恥ずかしい。