恩師・佐々木壮六(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「伝承」の大切さ、それは「親から子、子から孫」へ。教育や学校の場においては「師から弟子、先生から生徒」へ。

 

教師は、自分が教えられたようにしか教えられない。という話を聞いたことがあります。それは、学習者としての経験が、教師になってからも大きく影響するということであり、そもそも「教師」という職業を選択したこと自体に含まれている要素でもあるわけです。子育てにおいても、育てられたようにしか育てられないということになります。しかし、様々な出会いや学びを通して、それを超える技術や理論を身につけることができるのも事実です。ようするに「学び続ける」ことこそが「教える」ことだと言えるのではないでしょうか。

 

 

・・・美大をめざし研究所でデッサンを学んでいた高校時代、指導してくださった佐々木壮六先生(当時・大谷高校勤務)に★「折り蟹」を教えていただきました。先生曰く「折り紙もデッサンや」ということで、以来その心を大切にしてきたつもりです。やがて研究所は閉鎖、教職を退かれ東京でアーティストとしての活動を開始されます。最後に研究所の石膏像を、1つ譲り受けました。それが、

 

《マリア・スフォルツァ胸像》

http://sekkouzou.shop-pro.jp/?pid=22275536

H.52×W.47×D.25.5cm/制作年代:1470年頃

収蔵美術館:英国・ヴィクトリア&アルバート美術館

http://www.croatia.org/crown/articles/10219/1/Francesco-Laurana---Frane-Vranjanin-1420-1502-Croatian-Renaissance-sculptor-and-his-Lost-Princess.html

作者:フランチェスコ・ローラナ(Francesco Laurana 1430~1502)

 

 

ダルマシア(現在のクロアチアの沿岸部 当時はヴェネツィアの支配下だった)出身の彫刻家フランチェスコ・ローラナ作の婦人像です。モデルとなっているマリア・スフォルツァ(イッポリータ・マリア・スフォルツァ ippolita Maria Sforza 1446~1484)は、ミラノの支配者だったヴィスコンティ家の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァの娘です。ナポリ王だったアラゴン家のアルフォンソ2世に嫁ぎ3人の子供を持ちましたが、その中の一人が石膏像「M-445中古代婦人半面」の“アラゴンのイザベラ”で、こちらの肖像彫刻の作者もローラナです。作者のローラナは、ナポリで彫刻家としてのキャリアをスタートさせ、アルフォンソ5世の戦勝記念の凱旋門の制作にも参加しました。その後は、南仏エクス・アン・プロバンスのルネ・ダンジューの宮廷に招かれたり、シチリア、ウルビーノ、マルセイユなどを転々とし、各地の支配者からの依頼を受けて彫像を製作しました。様々な土地を渡り歩き影響を受けたことで、ローラナの作品には実に複雑な要素が含まれています。アラゴン家の人々の肖像彫刻群にはモデルを理想化しようとする創造性が、また晩年のフランスでの作品には北方地域のリアリズムからの影響を見て取ることができます。この石膏像のオリジナル大理石像は、かつてはドイツのベルリン美術館に収蔵されていましたが、1945年の第二次世界大戦による爆撃で破壊されてしまいました。オリジナル像から型取りされた石膏像が、英国のヴィクトリア&アルバート美術館、ロシアのプーシキン美術館などに収蔵されており、その姿を現代に伝えています。胸の中央に存在する窪みには、金属製のブローチ、ペンダントなどがはめ込まれていたと推定されています。
★かつてこの石膏像は「マリエッタ・ストロッチ胸像」と称して流通していましたが、それは誤りです。ストロッチ家は、フィレンツェの著名な銀行家の家系で、マリエッタ・ストロッチの彫像としては、ルネッサンス期の巨匠デジデリオ・ダ・セティニャーノの作品が存在しています。

 

 

・・・この石膏像は他の人にゆずってしまったので今はありませんが、何らかの作品にして再生したいと思っています。さて、風の便りに先生が亡くなられたことを知り、奥様と数回連絡をとらせていただきました。そして、私の地元である羽曳野市にある★「カン月」というレストランに、先生の作品が飾られていることを教えていただきました。また、画集もお送りいただきました。画集に掲載されたプロフィールによると、森内俊雄さんと明星高で同級だったようです。

 

 

【森内俊雄】(1936~)

大阪府出身。大阪明星高等学校を経て、早稲田大学文学部露文科卒業。宮原昭夫、李恢成は大学の同級生。主婦と生活社、冬樹社で編集者となるが、1972年に退職。

在職中1969年「幼きものは驢馬に乗って」で文學界新人賞を受賞、芥川賞候補となる。以後、70年「<傷>」、71年「骨川に行く」、72年「春の往復」、73年「眉山」と、計五回芥川賞候補となる。のち精神を病んだ経験を描いた『氷河が来るまでに』を1990年に上梓、高い評価を受ける。

 

 

《NEWS》2012.1.22日本経済新聞より

「梨の花咲く町で」著:森内俊雄/「時」をめぐる人生のミステリー

文学の文章は、老いてますます熟成する、ということがある。それどころか、ますます華やぐ、ということさえある。森内俊雄の久しぶりの短編集である本書を読んで、その感を深くした。巻頭に置かれた「モーツァルト」は、現代日本が舞台だが、モーツァルトの音楽や生涯をモチーフに、作中作やミステリー仕立てといった趣向を凝らした作品である。平穏な家庭に霊の気配がつづけてあらわれ、しかも平然とそれを受け入れて始まるあたりからして、森内俊雄ならではの世界が展開する。この作家にとって、「ミステリー」はただの推理によって解かれるべき「謎」にとどまらず、神の領域に関わる「神秘」でもある。「モーツァルト」以外の六編も、「クレアタ・エト・クレアンス」(「創造され かつ 創造する」という意味の言葉だという)ではレリーフの少女像が、「ジュニエ爺(じい)さんの馬車」ではアンリ・ルソーの絵画が、「ど・ど・ど・ど・ど」では絵本が、「火星巡暦」では尺八演奏や『聊斎志異』が、「橋上の駅」ではリルケの詩が、「梨の花咲く町で」では陶芸が、作品世界に深く織り込まれている。芸術は作品の風韻を作り、随所で芳醇な香を放っている。虚構性の高い作品からいわゆる「私小説」的作品まで含む七編の主題をあえて一語でいうなら、たぶん、「時」ということになるだろう。生きられた時間、想(おも)い出された時間である。時は過ぎゆくが、想い出の中には時間がない。ただ永遠だけがある。いくつかの作品で、過去の少女(たち)の姿を現在眼前の少女(たち)の姿に重ね、あたかも過去の少女(たち)が現在眼前に再来したかのように、主人公が不思議も抱かずに受け入れる場面がある。では、過ぎ去るのは「時」なのか。それとも、ただこの「私」の意識だけが過ぎ去り、「時」は永遠にとどまり反復するのか。人生というものの深い感慨に触れて、本書が読者に問いかける最大の「ミステリー」だ。末尾に置かれた表題作の、白い花が一面に咲き広がる梨畑の夢のような美しさもまた、そういう永遠の「ミステリー」の中にある。

 

・・・壮六先生を偲びつつ、この本を読んでみたいと思います。「過去というものは、思い出されているかぎりにおいて、それは現在である。(哲学者:大森荘蔵)」という名言もあります。