《奈良市きたまち鍋屋観光案内所》
630-8284奈良市半田横町37-2/0742-23-1928
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1339134894172/
平成24年7月1日(日)奈良市で★初めて、地元の皆様との協働により運営される観光案内施設「旧鍋屋交番きたまち案内所(奈良市きたまち鍋屋観光案内所)」が半田横町にオープンしました。この建物は、長らく「鍋屋の交番」として親しまれてきた旧奈良警察署鍋屋連絡所(明治41年設置、昭和3年に現在の半田横町に移転)を改築したものです。地域住民の安心のよりどころとして、その役目を終えて数年、一時傷みも目立つようになっていましたが、地域の声によりこのたび保存、改修を経て新たに生まれ変わりました。独特な洋風の外観はそのまま生かし、きたまちの玄関口で、地域の観光案内や地域活動の活性化、大学の研究・教育拠点など、さまざまな活動を実践していくことをめざしています。
《参考》なべかつ:鍋屋連絡所の保存・活用と“奈良きたまち”のまちづくりを考える会(通称:旧鍋屋交番と奈良きたまちの会)
http://www.kitamachi.info/nabekatsu/
「鍋屋連絡所」を奈良きたまちの観光拠点・地域の活動拠点などに活用しようと、2009年2月4日、地元の自治会長、★奈良女子大学の教員、地元住民らにより結成。
《参考》奈良女子大辺り
http://www.kitamachi.info/spot/joshidai.html
「奈良奉行所」は、今の奈良女子大のところにあり、江戸幕府の設置した遠国奉行のひとつ。奈良町中の行政・訴訟、大和国の寺社の支配、大和国の訴訟の一部を職掌としていました。約29,000平方メートルの敷地があり、遠山金さんのいた江戸北町奉行所の3倍以上の大きさ。奉行所として日本一の規模。堀で囲まれ、京都の二条城と同じ規模のまさにお城と言えます。有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていました。女子大前の★道が広いのは、ここで行列を整えたから。また、奉行所向かいの「寺川道具店」は、奉行所の中をのぞけないように2階に窓がありません。奉行所があったことの証人です。幕末の名奉行川路聖莫(かわじとしあきら)が、弘化3年(1846)からあしかけ6年間善政をひいたことで有名。また、梶野良材(かじのよしき)は、奈良の学問所として天保3年(1832)に明教館を開設。与力同心の子弟のほか、町民も受講でき、学問の興隆に努めました。奈良人形中興の祖、森川杜園(もりかわとえん)を見いだしたことでも有名です。この奈良奉行所は、今、奈良町の奈良市立資料保存館に展示してある、復元模型により往時の構えを見ることができます。
《消えた川と北花橋★永代橋》
平成11年の夏、きたまちは、時ならぬ豪雨で、まさに道路が川になり、あちこちで浸水被害が発生しました。今はふたをされて、道路になっていますが、地下を流れている吉城川にむかって水が集中したことが原因です。奈良公園から流れてくる吉城川と中御門川が、川久保町で合流し、佐保川に向かっているのですが、モータリゼーションの中で、地下河川になってしまいました。いまは、押小路町のところの北花橋の親柱、女子大の北東の角に★永代橋の石碑が、かつて、蛍が飛んでいたのどかな川があったことの証拠として残っています。
《長慶橋》(大正12~昭和31)安達正興のハード@コラムより
http://lite.c.ooco.jp/hard_column/no_nippon_1499.html
佐保川は「奈良女子大学」の北ウラ側でクビレ、東へ道路沿いにながれてゆく。ちょうどそのクビレた所の川端町から法蓮町へ南北に架かるのが★長慶橋、隣に川端町から船橋へ佐保川沿いに東西に架かっている大きい方が★天平橋である。しかし大正時代には道路が川の南側にそっていたので現在の天平橋や女子大北西の角にある佐保橋はまだなく、旧奈良まちから川を越えて法蓮佐保山に行こうとすれば、長慶さんが寄進した長慶橋か下長慶橋のどちらかの橋を通ることになる。佐保川は過去何度も洪水をおこし、木製の橋は流されてそのたびに架け代えられてきた歴史がある。最も被害甚大であった洪水は、宝暦三年(1735)の梅雨時の大雨によって起こった。正倉院に向かって左側の大仏池(人工のため池)が決壊し、★吉城川★佐保川から濁流が溢れ出て多くの木橋が流された。第二室戸台風は水害にとどまらず、瓦が飛んだり春日参道の灯籠は将棋倒しのように数百基も倒れ、春日の大杉が数本折れるほどの被害をもたらした。だが長慶橋はビクともしなかった。長慶さんが寄進した頑強な石橋は、しかし手押し車の時代に造られたので、自動車が普及してくると幅が足らず、市の道路計画により昭和31年に現在の変哲もない橋に架け代えられたのである。記念碑として「長慶橋」と刻まれたもとの親柱(四隅に立つ石柱)のひとつが橋の横に立てられている。深く土中に埋められているので寸詰まりだが、掘り出せば堂々たる石柱である。
《参考》【吉村長慶】
http://adch.gozaru.jp/no_nippon_k/no_nippon_k1498.html
《念声寺》
630-8293奈良市川久保町30/0742-26-6528
浄土宗のお寺。川久保町は、大仏殿の南から流れてくる吉城川と大仏殿の北側から流れてくる中御門川が合流するところです。低地を表す川窪が佳字化したものでしょうか。二つの川は今では、暗渠化されています。この合流点のところに白い塀で囲まれた念声寺があります。門を入ると左手に舟後光地蔵がおられ、そのお堂に、開基が武田信玄の遺子であることが書かれています。中庭には、油煙斎歌塚があります。合流点には川中地蔵と道標があります。暗渠化する工事の際に川の中からでてきたお地蔵さんをお祀りしており、この名で呼ばれています。また道標は、1856年(安政3)12月と彫られています。
《転害門》
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance9.html
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。なお、10月5日の転害会では、この基壇上において手向山八幡宮の祭礼が行われることになっている。
《奈良市きたまち転害門観光案内所》
630-8206奈良市手貝町54-1/0742-24-1940
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1368772531937/
平成25年5月25日(土)地元の皆様との協働により運営される観光案内施設「奈良市きたまち転害門観光案内所」が手貝町にオープンしました。この案内所の建物は、昭和15年に「南都銀行手貝支店」として建築されました。近代建築家★岩崎平太郎氏により設計され、町家の形態を遺した近代建築として貴重なものです。この案内所では、平成24年7月に開所した★「旧鍋屋交番きたまち案内所」と連携しながら、東大寺転害門や正倉院などの世界遺産や歴史的な町並みに加え、きたまち地域の近代遺産などの奈良の新たな魅力を結び付けていく、きたまち観光の拠点として活用をめざしています。なお、案内所の運営は、地元住民の皆さまや地域活動団体、観光ボランティア団体との協働によって行います。地域の観光案内や観光資源の発掘に加えて、地域のまちづくりなどを実践し、きたまち地域全体の活性化をめざしていきます。
・・・なんと奈良女子大学「佐保会館」と同じ岩崎平太郎さんの設計だとは、奇遇ですね。
《八坂神社(祇園社)》
630-8273奈良市押上町26/0742-23-4404(手向山神社)
東大寺の西を北に向かう旧奈良・京街道に面して鎮座する押上町の八坂神社。押上祇園社とも呼ばれ、京都祇園社を勧請し、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社としたという記録が残ります。
《参考》「彷徨う轟橋」文:橋川紀夫/奈良歴史漫歩 No.065より
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm068.html
「轟橋」の石碑が建つちょうど前の歩道は、敷石とは異なって長方形の石が3枚並んではめ込んである。跨いで越えられるほどの、この石が、実は轟橋の跡なのだという。『大和名所図会』(1791年)の図版には、「とどろき橋」と記した溝板のようなものが、雲居坂を横断して興福寺の子院とみどり池をつないでいるのが描かれる。『奈良曝』(1687年)では、「轟橋。雲井坂の南ニみどりか池のほとりにわづか成はしあり。車三りょうならぶゆへにかくいふとかや」と説明する。『大和名所記』(1682年)も、「轟橋。東大・興福両寺の中間、押明の門(西大門)の南のほとり。此橋のならびの北に雲井坂あり」とあり、これらの図版、説明が根拠になって、轟橋石碑ができたことがわかる。『奈良坊目拙解』(1735年)の中で、村井古道は異説を展開する。雲居坂が北に下り平坦になるあたりで、吉城川が東から西へ流れる。この川にかかる従弟井(いとこい)板橋=現★威徳井橋が轟橋だと主張する。古道は、通説の轟橋を緑池樋口小橋とよんでいるが、それは樋口の溝に蓋をしたものであったことがわかる。それ程度のものを橋とすることに、合理主義者の古道は違和感を持ったにちがいない。
・・・またの機会に、「轟橋」の石碑を探してみよう。調べれば調べるほどに奥深い、奈良の都。