・・・再度「ドリームスケープ」の奥付を見てみますと、発行者が「折田知子」さんとなっていましたので、その線から調べてみました。
【折田知子】
〇都市環境デザイン会議関西ブロック会員で壁画を手掛けている。
〇JUDI NEWS 16号(1994. 3 .10)
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/ichiran.htm
主張/アートで都市をつくる〈3月29日〉アートで都市をつくる
〇街屋集団の活動記録(NPO法人化以前)
http://machiyashudan.blog28.fc2.com/blog-entry-132.html
第22回 平成09年09月05日(金) 都市の公共性~アートで都市をつくる~ 講師:折田知子氏(OFFICE NATURAL代表者)
・・・など、断片的な情報しか見つかりませんでした。次なる手段は、実際に「折田知子」さんが文章を掲載しておられる雑誌や本を探し出すことです。次の2冊を発見することができました。
《「商店建築」1992年7月号》
特集『インテリアのスーパーグラフィック』P.243
インテリアに反転された風景を肴に飲む/ナインティーンP.244コラージュ近藤周二・俵康弘
360度に展開する6つの海の物語/アサヒピア21横須賀店P.246平林デザイン
トロンプルイユによるスーパーイリュージョン・アーキテクチュア/サムミュージアムP.248るい建築事務所
空間に散在する額縁のない絵/ギガP.251井上商環境設計 井上秀美・井上雅子・上田智・加茂久子
人工庭園に描かれた最後の晩さん/バルセロナP.254高島屋建装事業本部設計部 倉本真祐
インテリアに描かれた自然が生みだす開放感/パームツリーP.256ストローク★折田 知子
ウォールデコレーターによる“一品制作”の壁P.257
額縁をはみだした絵画たちP.258林伸光
街とアートの相互乗り入れP.260尾中哲夫
・・・幸い、この雑誌を入手することができたので画像で紹介します。
・・・詳細なデータが掲載されており、貴重な資料です。
・・・「折田知子」さんの名前での記事掲載ですが、文章は「森喜久雄」さんでした。
《わたしの仕事12「生きる基本を支える人」》
著:今井美沙子/写真:今井祝雄
出版:理論社1994年4月
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000018991679&Action_id=121&Sza_id=F2
目次/名物菓子製造販売:斎藤安弘/あられ製造販売:豊州牧子/和菓子製造:平田仁作・平田浩一/カステーラ製造販売:荒木一郎・荒木美江子/洋菓子製造販売:有元裕介/醤油醸造業:加納長兵衛/農業:山田久/居酒屋:内田惟之・内田文子/郷土料理 足立節子/飲食業:岡田則一/飲食店経営:中井政嗣/店舗コンサルタント:中浜稔/不動産賃貸業:中西康子/アートプロデューサー★折田知子/街づくりコーディネーター:中川雅永/グリーンプロデューサー:三木詔一/ランドスケープアーキテクト:白砂伸夫/樹木医:三家昌興
・・・残念ながら、古書としても出回っていないようなので図書館で調べて、あえて全文書き起こしました。(再版発行の可能性はなさそうです)
【アートプロデューサー 折田知子 33歳】
わたしの仕事12「生きる基本を支える人」より
◆なぜか心に充実感がわかなくて…。
この仕事にたどりつくまでに、ずいぶん転職しましたよ。生まれは鳥取なんですが、父の仕事の関係で転勤が多く、小学校で3回、中学校で2回、高校で2回転校しています。父は自衛隊の教官をしていて、それはきびしい家庭で、高校卒業まで門限6時でした。あまりにきびしかったので、大学はなんとか父母の元から離れたいと思い、関西外語大の短大に入ったんです。当時家は浜松だったんで、名古屋くらいなら新幹線でかよいなさいといわれるので、思いきって関西にしたんです。しかし、アルバイトは禁止だったので、1年生のときには友人がアルバイトするのを横目で見ているだけでした。2年生になり、友だちにさそわれ、学校近くの喫茶店でアルバイトすることにしたんですが、それも先に親に許可願いのつもりで報告しますと、さっそく母親がその喫茶店を見にきて、そこのご主人によろしくお願いしますと頭を下げて帰りました。大学出ましてね、別に何をしようという考えもなかったんですが、友だちが洋服の会社のワールドを受けるんでいっしょについていってくれといわれ、わたしも受けるはめになってしまったんです。ワールドは面接が多くて、10回くらいあったように記憶しています。それで、わたしはパスしたのですが、かんじんの友だちが面接1回で落ちてしまったんです。本当にへんな具合でした。パスしたものですから、おそるおそる両親に報告したんです。というのは、大学を出たら家に帰る約束をしていたものですから。ところがね、女性の洋服にまったく関心のない父までがワールドの名前を知っていて、いいところじゃないか、勤めたらいいといってくれたんです。ワールドでは企画のほうに勤めました。わたしは、ワールドでも最高のブランドである、ビルダジュールの担当でした。今から10年もまえで、冬のコートが100万円くらい、夏のワンピースが何十万円という価格でした。社会に出た最初から、本当にいいものを見られたということはよかったと思います。ファッションは好きだったから楽しかったけど、でもなぜか心に充実感がわかないんです。わたしひとり休んでも、仕事になんの影響も出ない。わたしって何の役にも立っていないんじゃないかと悩みはじめ、わずか1年でやめてしまったんです。今、思うと若気の至りですね。20歳の女の子が入社早々、仕事をしているという実感がほしいと思うほうが生意気ですもんね。でも、ワールドでお行儀の教育を受けたことは後々、本当に役に立ったと感謝しています。お客さまにコーヒーを出す場合のカップやスプーンの置き方、電話のかけ方に至るまで、じつに細かい指導を受けましたから。ワールドはとても人間関係がいい会社でした。
◆回り道はすべて勉強だったと思います。
それから、ずっと服関係の仕事をしてました。やめるたびにだんだんと小さい会社へ移り、そのかわり、生地を選んだり、今年はどういう傾向でいこうとか、カタログまでひとりで作れるくらい責任をもたされました。でもね、また、何かちがうと思うんですよ。ファッションって、サイクルが短いでしょう。それでね、思いきりよく、洋服の仕事をやめたんです。なんの仕事をしようかなと思っていたとき、友人の紹介でインテリア関係の人、ディベロッパー関係の人と知り合ったんです。彼らは10年単位で街作りをしようとか、何年単位でビルを建てようとか、かなり長いサイクルの話をしてるんです。とても新鮮に感じましたね。即、実行です。インテリアコーディネーターの会社へ1年いまして、そことおつき合いのあったディベロッパーの会社の社長さんから、うちで企画部を作るから来ないかといわれて、そこの会社へ入りました。いろいろ回り道しましたが、今思うと、結局ね、今の仕事にたどりつくまでの勉強だったと思います。全部ね、むだではなかったんです。プラスだったんです。今の仕事は企業と作家との間に入ってやる仕事でしょう。企業の中に入ったこと、今役立ってますね。お勤めしたことなくて今の仕事をはじめていたら、企画の段階で、スケッチを見せるまえに、「なんぼ?」といわれたら、なんと失礼なと思ったかもしれませんが、企業の人はお金を出すのはシビアな(きびしい)こと知ってますから、いちいち腹も立ちません。わたしはね、この仕事、仲人のつもりなんです。企業と作家、両方に喜んでもらえるように、わたしがきちんとやるべきだと思ってます。
◆背伸びせず素人の代表みたいな気持ちで。
わたしはアートの専門教育を受けたわけではなく、素人からの出発です。わたしは背伸びせず素人の代表みたいな気持ちで仕事をするように心がけています。一般の人にわかりやすい作品を紹介したいんです。これまでにやった仕事で印象に残っているのは、ビルの前の公開空地のアートプロデュースです。心斎橋のメイセームアビルです。アーチの彫刻と、陶柱です。それと、企業の工場の壁画ですね。企画の段階でスケッチを見せようとしたところ、例のごとく「なんぼ?」です。ムッときましたが、がまんして、いろいろと説明しました。あとで、「スケッチ置いていってくれるの?」ときくので、「いや、置けません」、「じゃ、コピーさせてくれるの?」、「いや、コピーはおことわりします。会議のときにわたしがお持ちします」と答えました。じつはね、アイディアだけとられたらいけないと思ってましたんで・・・。そしたら会議に出てくださいという連絡が入りその席できちんと説明しましたら、わかってくださって、いい仕事ができました。
じつは、つれ合いは画家の森喜久雄です。彼とコンビでこの仕事もやりました。最近では関西電力の仕事です。最初、壁画をたのまれたのですが、壁画の前の電信柱がどうしても浮くんですね。それで電信柱にも描かせてくださいとたのみこみましたがノーなんです。でも、またたのみこみ、グリーン1色ならなんとか大目にみましょうということで、作家に描いてもらったところ大成功で、できあがったら、上の方がお礼に見えました。わたしね、あまりおこらない性格なんです。それと、この仕事するまで、お金のことをいうのをはずかしいと思っていたのですが、今は逆です。間に入ったわたしがお金のことをきちんと交渉できなかったら恥だと思うようになりました。
◆人と会うのは好きなほうですから。
最初はね、森の仕事を手伝うというところからはじめたので、彼のプロデューサーと思われがちだったんですが、今は脱皮しました。彼とももちろん仕事をするけれども、どんどんわたしの興味のある作家の方と仕事したいですね。今、やりたい仕事は、公園ですね。噴水、いす、遊具、造園、土木に至るまでやってみたいですね。それとね、病院とか公共施設も・・・。とくに病院ですね。病院というと白一色でとにかく衛生的というのが先にきます。それは大事だけれども、もっとそこで働く人、入院している人、通院している人の気持ちをほぐすようなカラーシステムを考えてみたいですね。病院だけれどやさしく機能して、なにか知らないけれど楽しい気持ちになる、そんな場所がこれから高齢化社会に必要じゃないでしょうか。診察券も楽しいデザインにしたいですね。
わたしと彼が仕事場としている周囲(大阪市西区南堀江)は工場や倉庫が多く、現実的な仕事をしている人が多いんです。そこに住んで美術の仕事をしているもんで、ぼんと、おじょうと思われていますが、本当に自分のやりたい仕事をやるには、多くの犠牲がつきまとい、なかなか大変ですよ。でもわたしの仕事、楽しい気分でやっていないと、企業と作家との間には入れません。わたしのプロデュースしている大阪建設業協会のウィンドー、見ますか?今月はサウンドアーティストの藤本由紀夫さんの作品で、音も流れています。この仕事、わたしには向いていると思います。人と会うのは好きなほうですから。今思えば、人なつっこくて人とすぐ仲良しになるこの性格は、転校生の知恵で生まれたものかもしれないと思います。なんでもプラス指向で生きていきたいと思っています。
・・・長い文ですが、じっくり読んでみてください。「ストローク」を構えていた頃の空気感が伝わってくるようで、ジ~ンときます。