・・・久しぶりに「四天王寺さん」に行ってきました。というのも、何度も来ているのに★「絵堂」を一度も見学したことがなかったからです。
《旧町名「元町」》
町名は、四天王寺を町域の中心にもつ天王寺の元点であることに由来するといわれている。
《東大門》
かつて河内・大和からの四天王寺の参拝客を出迎え、伊勢神宮へ出発する巡礼者を見送ったのが「東大門」です。1623年(元和9)に建てられた旧・東大門は国宝に指定されていましたが、惜しくも戦災で焼失しました。現在のものは戦後の再建です。仁王像は新しく 平成14年に開眼式が行われたものです。東大門から境内に入って、すぐに「伊勢神宮遙拝石」があります。元々は東門外(門の階段のすぐ下)にあったものを、明治年間に移したもので、影向石(ようごうせき)とも呼ばれています。
《太子会》
毎月22日は聖徳太子の月命日ですので、四天王寺では「太子会」と呼んで縁日であります。特別な催しとして、◎番匠堂の曲尺太子(秘仏)のご開扉◎猫之門のご開扉、奥殿が門越しに拝めます。そして、◎太子殿の奥にある★「絵堂」に拝観できる日であります。宝物館の階段を下りた向いの扉が開いておりますので、そちらから入堂できます。(無料)★杉本健吉画伯により「聖徳太子御絵伝障壁画」が奉納され、昭和58年に完成しました。絵堂は、 聖徳太子の一生の事蹟が描かれた絵伝を礼拝の対象として安置する建物で、 絵伝は主として太子の奇跡的な伝説を中心に制作されたものであります。絵堂の入口は低くなっておりまして、通られる方は100人に30人くらいの確立で頭をガッツ~んと、打ちつけられていますので、どうぞ、くれぐれもお気を付けください。聖徳太子の縁日ですので、ぜひ★「太子殿」にもお立ちより下さい。
《聖霊院(太子殿)》
中心伽藍の東に位置する一画で、「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、この一画は木造建築である。主要な建物は前殿と奥殿である。前殿は1954年の建立で、入母屋造妻入。聖徳太子孝養像(十六歳像、秘仏)を祀る。奥殿は1979年の完成で、聖徳太子摂政像(松久朋琳・宗琳作、秘仏)を祀る。一見法隆寺夢殿に似ているが、夢殿の平面が八角形であるのに対し、この建物の平面は完全な円形である。奥殿のさらに北にある絵堂(1983年完成)には杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。
《NEWS》2015.10.22大阪日日新聞より
聖徳太子の偉業伝える 四天王寺絵堂特別拝観
大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(森田俊朗管長)で、開祖聖徳太子の一生を描いた壁画の特別拝観が行われている。境内・聖霊院絵堂には連日参詣者が絶えず、克明に描かれた壮大な歴史の場面に見入っている。拝観無料。31日まで。2022年に訪れる太子の年忌法要「聖徳太子1400年御聖忌」記念事業として昨春から実施。7面からなる壁画「聖徳太子絵伝」には生前や誕生をはじめ、物部勢と崇仏派の争いで崇仏派の蘇我側についた太子が戦勝を祈願する、同寺建立の起源となる場面も。同寺僧侶による法話と解説「絵解き」も人気の一つで数々の偉業を分かりやすく伝えている。21日は弘法大師の月命日の縁日「大師会」とも重なり拝観者が1千人近くに上った。生野区から家族と訪れた女性(80)は「何度見てもいい作品。より多くの人に見てもらいたい」と話していた。午前8時半~午後4時。絵解きは午後1時、同3時の2回。拝観者には壁画の一部をデザインした記念ポストカードが授与される。
【杉本健吉】
1905(明治38) 9月20日 名古屋市に生まれる。
1925(大正14) 京都にて岸田劉生の門下生となる。
1927(昭和2) 主に鉄道関係の観光ポスターを作る。
1937(昭和12) 国画奨学賞を受ける (「宇奈月雪渓」)。
1940(昭和15) このころから大和の風物に魅せられ、奈良通いを始める。
1946(昭和21) 国展に奈良素描多数出品。第2回日展特選(「博物館彫刻室」)
1948(昭和23) 第1回中日文化賞(奈良風景を題材とした「タブローとしての素描」)。
1949(昭和24) 東大寺観音院上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、そこで奈良制作を始める。
1950(昭和25) 週刊朝日の吉川英治作「新・平家物語」挿絵担当。
1962(昭和37) 初めてヨーロッパへ海外スケッチに出る。以後毎年海外スケッチ旅行に出る。
1982(昭和57) 「中国スケッチ展」を名古屋・名鉄百貨店ほかで巡回。
1983(昭和58) 大阪★四天王寺「聖徳太子絵伝」完成。
1987(昭和62) 中日新聞本社主催「杉本健吉披露展」を3月、名古屋・名鉄百貨店で開く。名古屋鉄道(株)により★「杉本美術館」を4月、知多美浜緑苑内に開館。
http://www.meitetsu.co.jp/files/sugimoto/index.html
1988(昭和63) 杉本美術館館長、本多静雄夫妻らと世界一周旅行。旅行記「地球一周絵のある旅」発行。
1989(平成元) 世界デザイン博に陶壁「迦陵頻伽」を制作する。右手を骨折したことを機に、左手でも創作をはじめ、あらたな画境を拓く。
1991(平成3) 旧友であった写真家★入江泰吉の作品を収蔵展示する奈良市写真美術館のため陶壁を制作する。
1992(平成4) 胎蔵界・金剛界の両界曼陀羅を製作。
1993(平成5) 中国(北京)で吉川英治記念館・講談社等の主催で「日本画家・杉本健吉画展」を開催。
1994(平成6) 名鉄創業100年記念事業として杉本美術館新館開館。「画業70年の歩み 杉本健吉展」を愛知県美術館で開催。
2004(平成16) 2月10日、肺炎のため逝去。享年99歳。
《参考》2004.5.8中京テレビ放送
名古屋鉄道特別企画「追悼杉本健吉画伯」感動は受胎
http://www.ctv.co.jp/chu/lady/2004/0506/index.html
今年2月、98歳でこの世を去った洋画家・杉本健吉さん。郷土を愛し、名古屋を拠点に生き続けた画家がいなくなるということはどういうことか、彼が絵や作品を通して伝えていたものは何なのか。15年にわたって彼を追い続けた膨大な取材記録を基にその生涯を振り返ります。
<洋画家・杉本健吉 その生涯>
無数といえるほどの作品を残した杉本さん。「大仏殿・雪」のように美術史に残る作品から、「曼荼羅」のような話題作、名古屋能楽堂の鏡板「若松」、四天王寺★「聖徳太子絵図」などの大作。実は名古屋鉄道の電車の色を決めたのも、名古屋市の地下鉄のマーク、某名古屋名菓の老舗のパッケージデザインも杉本さん。生涯「絵を売らない」と言い続けた杉本さんの作品数千点が美浜の杉本美術館に保管されています。17歳からほぼ1年に1枚自画像を描き続けた杉本さん。その膨大な作品の中には、今年の正月に描かれた最後の自画像もありました。
<杉本さんの精神の継承 未来への遺産>
杉本さんに会い、その作品を見ることで強く感銘を受けたひとり・イラストレーター★黒田征太郎さんは、杉本さんの残したものをきちんと受け止めたといいます。「本当に杉本さんの魅力を理解し、継承していけるのは子供たちだ」という黒田さん。杉本美術館のある美浜の子供たちといっしょに杉本さんの精神を形にする、ある試みを計画。その計画とは?
黒田さんは、杉本さんが生前久しぶりに挑戦するといって用意していた100号キャンバスの制作にも取り掛かります。もちろん題材は杉本さんがこだわり続けた産業遺跡・旧カブトビール工場赤煉瓦建物。黒田さんの手を借りて、画家・杉本健吉が甦ります。「人生は絵だ。画家は絵ですべてのことを言う…言葉にならない」私たちは杉本さんが残した100号キャンバスの遺言状から何を読み取ればいいのでしょう。杉本さんゆかりの人々が、それぞれの形で杉本さんの遺産継承の姿を追いつつ、キャンバスに託された思いを考えます。
・・・黒田征太郎さんは、あらゆることに前向きに取り組んでおられ感心します。
《龍の井戸》
創建推古元年 五九三年
この井戸は 金堂本尊基壇下にある青龍池を水源としており、東に流れて亀井水に導かれている霊水である。古来 この井戸は 天竺(インド)の無熱池に通じており、この池を守護する青龍が棲む と伝えられている。この龍の影が映るとされる天井には 龍の絵が描かれ、覗いて水面に湧現される龍に祈れば、たちまちに厄災を除くと信じられています。
・・・偶然、天井の「龍」の修復作業を見ることができました。以前に撮影した画像も掲載しておきます。