・・・悲喜こもごも「人権センター(2)」で新築移転した「舳松人権歴史館」を紹介しました。豊中市「服部霊園」にある、「坂田三吉さん」のお墓参りもしてきたところです。再び堺市にやってきたのは「百舌鳥古市古墳群」のこともあるのですが、気になることがいくつかありまして、
《開口神社》
590-0953堺市堺区甲斐町東2丁1-29/072-221-0171
塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る。塩土老翁神は、住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神とされ、「住吉の奥の院」と呼ばれる。社伝には、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。また延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されていて、この延喜式神名帳では「開口」を「アキクチ」と読ませている。この「アキクチ」が訛って「アグチ」となって現在に至る。摂津の住吉神社と古くから関係が深く、731年(天平3年)の記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている。932年(承平2年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていた。1113年(天永4年)、原村の素盞嗚命、木戸村の生国魂命を合祀し、「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。
http://www.sakai-tcb.or.jp/feature/12_8.html
境内東側には豊竹稲荷神社、三宝荒神社(竈神社)の2社、白髭神社・塞神社(庚申さん)、舳松・松風神社、菅原・岩室神社の2社合祀殿3棟。社殿裏手には熊野・厳島(弁天さん)・兜・三宅八幡・琴平・神明・豊受神社、産霊・北辰・大国魂(大黒さん)・恵比須(戎さん)・少彦名・舟玉・楠本神社の7社合祀殿2棟の22社の境内神社があります。また、本殿北側の念仏寺の名残りである薬師社には、ご神体として平安後期の作とされる薬師如来坐像が祀られています。神宮寺の念仏寺本尊は戦前には廃仏毀釈で外部に出さず秘蔵、昭和39年「節分祭」に開帳され毎年行者による護摩供養が行われています。(節分祭のみ拝観可)
末社「舳松神社」前に、舳松神社の銘がある手水鉢が有ります。明治40年5月に寺地町東から移転される事が決まる前の年=明治39年9月の文字が彫られています。
《堺市史》(第七巻)より
第三編 名蹟誌 第一章 神社及神社址 第二節 神社址
(二)舳松神社址730 ~ 731 / 897ページ
【所在】明治四十年五月開口神社へ合祀した舳松神社は寺地町東三丁十三番地田村眞三氏住宅を中心とした附近の一劃にあつた。同社は一に九本松明神とも云ひ、(堺鑑、社寺明細帳)合祀當時旭蓮社の境内の東北隅にあつた。境内百四坪、本殿桁行四尺
、梁行同上、幣殿桁行五尺、梁行四尺、拜殿桁行二間、梁行一間の營造物があつて何れも南面してゐた。(社寺明細帳)
《大阪府全誌》より
舳松神社(別名九本松の明神) 堺市寺地町東三丁字内農人町旭蓮社北門内、祭神:住吉四神。
・・・歴史的な地名が、どんどん消えていくのは寂しいものです。
・・・今回は★「舳松神社」へのお参りが目的でしたが、開口神社には様々な史蹟があります。今回さらに、
《NEWS》2016.4.13朝日新聞デジタルより
堺生まれの歌人・与謝野晶子(1878~1942)が詠んだ短歌の歌碑が、晶子の生家に近い堺市堺区の開口(あぐち)神社に建立される。晶子が幼い頃に遊んだ神社を思い、詠んだ歌を碑文にした。晶子の歌碑は堺市内で26基目。全国にも220基以上あり、増え続けている。晶子が詠んだ歌のテーマは現代にも通じると、没後70年以上経っても根強い人気が続いている。NPO法人堺観光ボランティア協会が創立20周年の記念モニュメントとして企画し、神社に提案した。境内には晶子の母校・府立泉陽高校(当時は堺女学校)の発祥の地を示す石碑もあり、その隣に建立。晶子が亡くなった5月29日の「白桜忌」に除幕式を行う。開口神社は地元で「大寺さん」と親しまれ、晶子の生家の和菓子店「駿河屋」のすぐそばにあった。晶子は子どもの頃、木の実を拾うなどして遊んだという。
・・・与謝野晶子さんの歌碑もめぐりたいものです。