・・・「ゆりかご保育園」からの帰り道、
《前田道路株式会社「大阪中央合材工場」》
572-0075寝屋川市葛原2-14-16/072-826-5321
http://www.maedaroad.co.jp/index.html
1930株式会社高野組を設立、アスファルト舗装工事の草分けとして創業する。1948高野建設株式会社と社名変更し、一般土木分野進出し業容の拡大を図る。1968前田道路株式会社と社名変更。
《鳥飼仁和寺大橋有料道路》
572-0076寝屋川市仁和寺本町1-5-6/072-828-0621
http://www.osaka-road.or.jp/torikai.html
鳥飼仁和寺大橋有料道路は、淀川右岸の摂津市鳥飼中から左岸の寝屋川市仁和寺本町を結ぶ有料道路です。
http://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/kansendouro/torikai.html
淀川左右岸を結ぶ鳥飼大橋等の交通混雑の緩和と北大阪、東大阪地域の交通の利便性を図るため、昭和58年7月から3年半をかけ、事業費102億円で建設されました。昭和62年2月28日に供用開始され、延べ(平成14年度末)7000万台を超える車両が通行しています。
【仁和寺氏神社】
572-0076寝屋川市仁和寺本町4-11-29
仁和寺は古くは「にわいじ」とよんだこともあったようです。地名は★京都仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。鎌倉時代初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺殿を管領(寺務を司る権利を所有)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のち地頭職は室町院(暉子内親王)へ寄進され、持明院統の所領になりました。この時の『室町院御領目録』を見ると、仁和寺庄は上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後上下ニ庄として史料にあらわれます。南北朝時代に入って、持明院統の花園上皇は1342年(暦応5)に妙心寺を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺に寄進しました。しかし、1399年(応永6)大内義弘が将軍足利義満に謀反を起こし(応永の乱)、敗死した大内義弘と妙心寺の拙堂が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され、事実上の幕府御料所となり、いわゆる「河内十七カ所」の一部となっていきました。
《由諸》
当神社は、元からここに鎮座されたのではなく、延宝二年(一六七四)六月十六日の淀川の仁和寺堤防が決壊して、社殿が流され村の田畑は皆川砂を冠ったもので、その上砂を村の中央に集めて耕地の復旧を図り、その砂山の地に新たに社殿を造営し、神様をお移ししたものである。元の鎮座地は字本宮(もとみや)と称し、田ん圃の中に、籬で囲った石碑が建っている。ここが、もとの「氏神社」の建っていた所である。その石碑には、「仁和寺氏神社御本地 代々能人敬う神乃宮之跡」と刻まれている。そして傍らに小さな石の祠がある。旧社の起源は、伝うるところによると、仁和寺庄に観音寺の建立されると同時に、本宮の地に建てられた白山権現であるとされている。元の産土神は今古宮と称して境内摂社に奉祭する白山権現(祭神・伊弉諾尊・伊弉冉尊)であった。寛永十年(一六三三)永井信濃守が当地方の領主となり、領内の産土神に菅原道真を祭ってよりは当社の主神として天満宮・白山権現とならべ称えることになった。明治五年、当社は村社に列せられたが、明治四十四年一月十四日、燐村の佐太天神社に合祀されて表向きは佐太天神の御旅所となっていた。昭和になって間もなく神様に戻ってもらう気運が湧き、昭和四年以降内務省に、村を挙げて神社復旧運動を起こし、それが正式に復旧を許可されたのは太平洋戦争のさなか昭和十八年七月二十六日付けであり、その翌月の八月二十五日、盛大な還幸祭を執り行い、長い間の村民の願いは達せられた。
《かえる薬局》
572-0033寝屋川市池田東町7-7/072-814-8558
・・・寝屋川散策のオチに「カエル」が発見できて、ラッキーでした。
《参考》寝屋川市立エスポアール
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/organization_list/kyoiku_shakaikyoiku/esupoa_ru/