住吉名勝保存会(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《池田屋「住之江味噌」》

558-0045 大阪市住吉区住吉1-9-2206-6671-4845

明治の初め当家17代目池田屋甚兵衛が多年に渉り研究したる手法をもって調製したものである。当時宮中出仕の女官若菜局を介し、明治天皇に15カ年の長きに亘り献上いたし、引き続き大正天皇、今上天皇の摂政宮殿下時代にも献上の光栄に浴した。住之江味噌の命名の由来は、当時摂津一の宮である官弊大社住吉神社宮司男爵★津守国栄卿が謡曲「高砂」にも記されている、古来よりの名勝住の江の浜に因んで名付けられたものである。


いけだ1


NEWS》2015.8.6毎日新聞より

「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」

目引く屋根の高灯籠 風情もみそも昔ながら

旧住吉街道やその周辺には格子のある古い町家が残る。旧熊野街道との辻、ここは氷屋やパン屋があり、なかなか趣があるのだが、最も目を引くのは辻の角に建つ老舗のみそ屋、池田屋本舗だ。虫籠窓のある築130年という建物の風情もさりながら、屋根の上に灯籠が乗っているのだから。こんなん見たことない。ちょうど、ご主人が店の外で水を使っていたので声を掛けた。「道だけでも冷やそか思て」。優しげなご主人、池田幹隆さん(87)にいざなわれて、涼しいお店の中で話を伺う。あの灯籠は、と話を切り出すと、「昔から住吉のシンボルは太鼓橋、高灯籠、住吉踊りです。高灯籠は昔は海の近くに建ってましてん。それがジェーン台風で……ジェーン台風、知ってはりますか?今の人は知らんさかい」。1950年9月、近畿を直撃して死者300人以上を出した台風。産まれる前ですが、知ってます。「そのジェーン台風で高灯籠が倒れたんですわ。のちに再建されたんですが……」いま、住吉公園の西側に高灯籠が建っている。地元の有志が74年に再建したものだ。ただ、あまりにきれいになったものだから、ご主人は「ようし、昔のままの高灯籠を、うちの屋根の上に建ててやろう」と思い立った。「国の登録有形文化財に指定される前やったから。江坂の電飾屋さんに頼んだら『電気つくようにしましょか』言うから、そんなん要りまへんと」。見物に人々がやって来たという。案外新しい高灯籠は樹脂製で、灯はつかない。そもそも池田さんのご先祖は約450年前、泉州から熊野街道を北上して、住吉へやって来て、酒を造っていた。住吉街道は磯歯津道(しはつみち)。磯も津も、海が近いからわかるが、わからないのは歯だ。「なんでこの字が付いてるか。歯の形のように道がうねっていたから」と解説してくれた。名物の住之江みそは明治初めから造り始めた。明治、大正、昭和の三代の天皇に献上した逸品。ご主人は「おかずみそです」と言う。甘めのみそとゴマの風味が特徴。試食させてもらったかつおでんぶは、ご飯の友に絶妙だし、ゆずみそはゆずの香り豊か。ご主人は19代目。カメラマンを15年ほどして跡を継ぎ、手作りで化学調味料を使わない昔ながらの味を守っている。店の表にある木たるは、江戸は元禄時代のものだとか。ご主人もみそも店のたたずまいも、実に味わい深い。

【荘厳浄土寺】

558-0054大阪市住吉区帝塚山東5-11-14/06-6672-3852

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009364.html

創建年代は不明であるが、境内に残る礎石や出土瓦が、往時の盛大さを物語っている。応徳元年(1084)白河天皇の勅願寺となり、荘厳浄土寺の号を賜わった。★住吉行宮の後村上天皇は2度も行幸されている。当寺の不動明王立像・愛染明王坐像は、大阪府有形文化財に指定されている。


いけだ2


《住吉行宮跡》住吉区墨江2-720

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009359.html

南北朝時代、後村上天皇はたびたび住吉大社に行幸し、正平7年(文和元年1352)には吉野からここに移り、住吉大社神主★津守氏の邸内にあった★正印殿を行宮にした。その後ここは南朝の勢力挽回の中心地となり、後村上天皇が正平23年(応安元年1368)ここで崩御して長慶天皇が即位、吉野に移るまでの約9年間行宮であった。


・・・ちょっと住吉街道からはずれますが、「住吉行宮」にも行ってみます。


いけだ3


NEWS》2015.9.10毎日新聞より

「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」

小学校経て住宅地に 昭和初期“大阪のビバリーヒルズ”

住吉大社宮司、津守氏邸の正印殿。住吉大社の権禰宜、小出英詞さんは、明治以降の正印殿の移り変わりについて、「大事なのは、学制が定められて、明治5年に住吉で最初の小学校が置かれたんです。寺子屋ならぬ神社子屋といいますか……」と語る。 小学、中学、大学の学制がスタートした時のことで、小学校会議所という名で開校した“神社子屋”は、台所と玄関を間借りした。のちに住吉第一小学校となり、現在の墨江小学校へと至る。あまたの武将が訪れた正印殿に、子どもたちが集うことになった。それも数年のことで、正印殿は手放され、やがて荒れるに任せるままとなった。庭園の名石は、住吉大社にいくつか残っているという。跡地は払い下げられた。「住宅地として開発されます。翠草園と名付けられ、南側には墨江園という府庁の官舎があり、落ち着いた住宅街として知られていました。昭和の初めには、“大阪のビバリーヒルズ”と呼ばれていたそうです」。小出さんの話で、正印殿跡が住宅街の中にあるわけがわかった。上町台地上にあって昔は見晴らしが良く、淡路島に日が落ちていくのが見えたという。そんな一等地に津守氏が邸宅を構えていたということだ。小出さんによると、開発が進み昔の面影がなくなっていくのを惜しむ声が高まり、地主さんが昭和の初めに一部の土地を寄付。1936年(昭和11)「後村上天皇 住吉行宮正印殿阯」の石碑が建立され、その3年後に国史跡となった。行宮(一時的な宮)という、天皇関連の史跡として評価されたようだ。南朝を正当とする皇国史観の時代の影響もあったのだろう。碑の脇の社は、開発に伴って近在のお稲荷さんが集められたという。史跡に指定された39年から毎年、後村上天皇が亡くなった4月6日に「正印殿祭」が開かれ、近所の人たちが集うそうだ。小学校を経て住宅街へと姿を変えた正印殿は、この地の大事な歴史のありかなのだ。南海沢ノ町駅に戻って。大阪案内人の西俣稔さんが向かったのは若松宮。正式には★「止止呂支比売命神社」という。祭神は、素戔嗚尊と妻の稲田姫。「とどろき」について西俣さんが語り出す。「滝や川のせせらぎのこと。箕面の奥の止止呂美(とどろみ)という所は余野川の流域。明治22年に5村が合併して豊中村ができるんやけど、その一つが南轟木村。目の前を千里川が流れていたから、とどろきやったんです」。静寂の中にせせらぎだけが聞こえる、山村が頭に浮かぶ。と、おばちゃんが寄ってきて「なんか調べてはんのん?」。ええまあ、とうなずくと「ここの神さんはきれいな人やって」。思わず「見たんですか?」と問い返しそうになる。本殿の裏手に回ると★「後鳥羽天皇行宮址」の石碑があった。松林を切り開いて行宮を建てたことから、若松宮と呼ばれるようになったという。


・・・さらに「若松宮」まで行くことにします。


いけだ4


【止止呂支比売命神社】住吉区沢之町1-10

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009370.html

素盞嗚命、稲田姫を主神とする式内社であるが、創建は不明である。境内に★「後鳥羽天皇行宮跡」碑があるが、これは上皇が1220年(承久2)熊野詣のとき、この地に行宮をおき若松御所と称したことによる。このため当社は若松神社ともいわれる。上皇の熊野詣は生涯25回に及んでいるが、そのときの様子は随行した藤原定家の「明月記」に詳しい。


いけだ5


・・・「霰松原荒神」というのも気になりますねえ。