住吉名勝保存会(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《住吉のいわれと町並》「すみよし探歩」より

http://hijicho.com/sumiyoshi/?p=33

奈良時代に編纂された「摂津国風土記」には、「昔、息長足比売(神功皇后)の世に住吉の大神が出現して住むべき国を探し求めて天下を巡りこの地(住吉)に至った時、これぞ、まことに住むべき国なり、といい、(真住み吉し、住吉の国)といって神の地と定めた」と、住吉と呼ばれた由縁が書かれている。住吉は古代より海上交通・外交のための港と、海上守護をつかさどる住吉大社を中心に栄えた。上町台地の南寄りに位置し、西側は北方にくらべ急な崖が少なく、住吉大社の南にあった細江川(細井川)の河口の入江が”住吉の津”であったと考えられている。また、自然美あふれる素晴らしいところで、行楽を兼ねて参詣に訪れる公家や文化人がこの地で和歌を詠み、万葉集にも”あられ打つあられ松原住吉の弟日姫と見とれど飽かぬかも”という歌が残されている。中世には、「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わった熊野参詣の道筋である熊野街道や紀州街道の交通の要衝として発展し、大勢の人たちがこの地を訪れた。また、遠里小野の荏胡麻油や我孫子鋳物師など金属加工産業で栄えた。江戸時代には、紀州街道によって堺との流通もよく商業活動が活発になるとともに、商業的農業や商工業が発達した。近代になって、日東蓄音機(レコード)、摂津酒造、だんつう業(もうせん・じゅうたん等)などの先駆的な産業が生まれた。さらに、交通面においても、明治18年に難波-大和川間に鉄道が開設されるなど、近代化が進んだ。


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《住吉名勝保存会・主たる事業概要》

1974(昭和49年12月)住吉公園西国道6号線沿いに★「高燈籠」を再建

1976(昭和51年3月)住吉大社東南入口に★「桃山の大鳥居」を復元再建

1976(  同 5月)住吉大社境内に★「住吉文華館」を建設

1976( 同  10月)住吉公園に★「石造り狛犬」一対建立

1980(昭和55年11月)★中央区谷町7丁目に史蹟「近松門左衛門の墓」を復元再建

1980(  同  々 )★大東市妙法寺に谷町と同じ「近松門左衛門の影墓」を建立

1981(昭和56年6月)住吉大社境内に★「住吉武道館」を建設


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1982(昭和57年1月)住吉大社駅西に★「源氏物語の碑」を建立

1982(昭和57年4月)第1回住吉公園櫻カーニバル開催、現在も毎年開催

1983(昭和58年6月)十三間堀川に「せせらぎの道」建設を大阪市に要請し完成

1986(昭和61年12月)住吉大社卯の葉神事に欠かせない「卯の花苑」造成

1987(昭和62年5月)以後毎年「卯の花苑」一般公開実施

1989(平成元年6月)船神輿を建造し子供神輿2基と合わせ住吉大社に奉納

1989(  同 12月)船神輿の絵馬を住吉大社の絵馬殿に掲額奉納

1990(平成2年2月)「安立町の由来と半井安立」の冊子を発行

1990(  同 11月)住吉公園に「汐掛顕彰碑」を建立

1991(平成3年12月)「汐掛顕彰碑の原図」を大阪市に寄贈

1992(平成4年8月)住吉大社境内に「案内表示柱」を6箇所設置

1992(  同 11月)住之江区柴谷1丁目街路に「井路川水路顕彰碑」を建立

1993(平成5年3月)「井路川水路顕彰碑の原図」を大阪市に寄贈

1993(  同  10月)住吉公園に「ラジオ塔」を再建


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1994(平成6年6月)住吉大社正面参道汐掛道に「住吉燈籠」整備

1994(  同 7月)「住吉燈籠の移転整備を終えて」の冊子発行

1995(平成7年4月)「加賀屋会所」保存を国と大阪市に働きかけ会所保存される

1995(平成7年11月)住之江区平林2丁目正平橋北詰に旧町名「釜口町」顕彰碑建立

1996(平成8年4月)「加賀屋会所」保存の維持管理の委託を受け現在に至る

1996(  同 々 )「難波屋の笠松」を安立小学校校庭に復元

1996(  同 9月)住吉大社文華館の電気関係の補修を完了させる

1996(  同 10月)「升の市」復元。以後、毎年「升の市」を後援、現在に至る

1996(  同 11月)住吉大社末社浅沢神社に住吉区の区花「かきつばた苑」造成

1998(平成10年3月)住吉武道館前に「後醍醐天皇の車返しの櫻苑」造成

2001(平成13年2月)住吉大社境内上池と下池の排水施設設置

2005(平成17年8月)高燈籠を「史料館」に改装、ライトアップし一般公開

2006(平成18年10月)真田幸村を通じた大阪城と上田城の友好城郭の橋渡し

2008(平成20年10月)大阪城と上田城の友好城郭記念碑を大阪城に建立

2009(平成21年12月)大阪城と上田城の友好城郭記念碑を上田城に建立


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NEWS》2015.5.30朝日新聞デジタルより

■朝はラジオ塔の前で

大阪市住吉区にある住吉大社の参道は短い。正面の鳥居のすぐ前を路面電車の阪堺電車が走る。その西に南海本線住吉大社駅があり、さらに西に住吉公園が広がる。公園はかつて住吉大社の神事の馬場で、「汐掛道」という参道が通っていた。大社の由来を記す『住吉大社神代記』に西の境は「海(で)棹の及ぶ限」とある。権禰宜の小出英詞さん(39)は「昔は大阪湾が境内でした」と説明した。だが江戸時代に住吉大社の西一帯で加賀屋新田などの新田開発が進み、目の前にあった海ははるか遠くになった。♪新しい朝が来た――。住吉公園に毎朝6時半、ラジオ体操の軽快な音楽が響く。夏は約250人、冬はその半分ほど。主に高齢の人たちが体を動かす。元日も休まない。音楽は公園内のラジオ塔から流れる。元の塔は1933(昭和8)年にできたが、老朽化してラジオは聞こえなくなった。30年近く前、ラジオを持参して体操を始めた人がいた。★「住吉名勝保存会」という団体が企業などに寄付を呼びかけ、住吉公園開設120周年にあたる1993(平成5)年、約1200万円でラジオ塔を再建した。

■ラジオ・地域の人々つなぐ

日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年。今年はラジオ90年である。当時、ラジオ放送を普及させるため全国に「公衆用聴取施設」、いわゆるラジオ塔ができた。第1号は1930(昭和5)年、大阪市の天王寺公園だった。ラジオ塔を調べている国立民族学博物館の元客員教授の吉井正彦さん(70)によると、全国約460カ所に設置された。これまで新潟や群馬、神奈川、兵庫、徳島などに25基が現存するのを確認した。そのうち京都は8基、大阪は6基と多い。大阪・住吉公園でラジオ体操をする人たちの集まり「住吉公園ラジオ体操(塔)愛好会」がある。会長の安達久雄さんは26年生まれの88歳。現在の大阪市立粉浜小学校を卒業した。33年に公園にラジオ塔ができたのを覚えている。周囲にござを敷いてベンチを並べ、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)や大相撲の中継を大勢の人が楽しんだという。吉井さんは「ラジオ塔の前で地域の人たちがラジオ体操をするのは、コミュニティーづくりにつながる。行政防災無線を組み込めば、災害時にも役立つのではないか」と話す。


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■弓の神見守る若き勇士

5月1日、大阪市住吉区の住吉大社で第64回住吉大社全国弓道大会があった。全国から参加した延べ519人が、遠的という60メートル先の的をめがけて腕を競った。はかま姿の男女が弓を引くたび、緊張感が漂った。住吉大社は弓の神でもある。射場はふだんは駐車場の場所に特設されていた。その南に住吉武道館という鉄筋コンクリート2階建ての建物がある。武道を通じた青少年の健全育成を目的に地元★住吉名勝保存会が寄付を募り、1981(昭和56)年に約2億2千万円かけて完成させた。各144畳の柔道場と剣道場、28メートル先の的を狙う近的の弓道場などがある。森政暉館長(70)は「柔道と剣道、弓道がそろう民間施設は珍しい」と話す。ここでは武道のほか、押し花や洋裁、書道、社交ダンスなどの文化教室が開かれている。保存会は1974(昭和49)年、住吉高灯籠の再建を目的に設立された。その後も住吉大社の参道だった汐掛道や住友家が寄進した住友灯籠の整備、ラジオ塔の再建などに取り組んできた。住之江区の★加賀屋新田会所跡の保存を大阪市に働きかけたのもこの団体だった。