若宮商工稲荷神社(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・まず初めに、以下の情報をHPに掲載してくださった方に深く感謝申し上げます。急速な科学技術の進歩に、多くの伝統文化が埋もれてしまっています。せっかく思いをもって大切にしてこられた「もの・こと」であっても、その歴史や由来を知らないために、「ないがしろ」にしてしまっていることがどれほど多いか。時には、撤去・崩壊・破壊の危機にさらされることもあります。ですから、この情報化時代にあって、誰かがどこかでWEB上に記載すれば、その情報は良い意味で「拡散」「不滅」のものとなるに違いありません。私なりに、その情報をさらに補強していきたいと思うわけです。

【大阪商工会議所の銅像と若宮商工稲荷神社について】

http://www.osaka.cci.or.jp/wakasj/statue/statue.html

大阪商工会議所ビルの前、若宮商工稲荷神社に向かう石段の下には、大阪商工会議所の会頭3人の銅像が設置されています。これらはいずれも堂島の★旧大阪商工会議所ビルから移設されたものです。3人の会頭は、それぞれ大阪の近代化や国際化に多大な功績があった方々で、向かって左から初代会頭★五代友厚、7代会頭の土居通夫、10代会頭の稲畑勝太郎です。


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《若宮商工稲荷神社》

http://www.osaka.cci.or.jp/wakasj/origin/origin.html

大阪商工会議所ビル南隣りにある若宮商工稲荷神社は、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した★「商工稲荷神社」が、 大阪商工会議所の移転に伴って堂島から★現在の内本町へ移されることとなり、 1965年(昭和40)9月に移転先である内本町の建設用地内にあった★「若宮稲荷神社」の ご神体と合祀され、新たに建立されたものです。以来、現在に至るまで大阪商工会議所歴代の会頭をはじめ多数の方々がご参拝されており、地元商工業関係者の方々はもとより、地域住民のみなさんにも鎮守として親しまれ、 広くご参拝をいただいています。

【旧大阪商工会議所】

https://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/01.html

五代が会頭であった明治12年1月に現在の中央区高麓橋三丁目★三菱東京UFJ銀行大阪営業部あたりに、当時の「大阪商法会議所事務所」を新築している。

《参考図》「浪華商工技芸名所智掾 商用手引」

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803734

1885年(明治18)亀岡佐七郎によって編集・出版された大阪市中の店を紹介した書物。大阪市中を「上町之部」「船場之部」「島ノ内之部」などとして地域別に分類し、扱われている商品とその経営者の名前が掲載されています。また、巻末には「有名諸大家」「能狂言」などの項目が立てられ、当時の大阪の文化人をはじめ各界の著名人が列記されています。


NEWS》2015.8.29産経WESTより

日本を代表する関西の企業家105人を常設展示している大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)。真っ先に「明治維新期の大阪経済再生と近代化をリード」と紹介されているのが五代友厚だ。入館者がひととおり見学後、隣接のスペースではさらに五代を印象づける特別展示がある。五代の没後130年企画として12月18日まで開催中の「大阪の恩人・五代友厚」。浮世絵師の★四世長谷川貞信による約20枚の絵画(複製)で五代の生涯を分かりやすく紹介するとともに、約30点の五代ゆかりの品を展示している。


★「4代目長谷川貞信(19141999)」

3代目長谷川貞信の長男。名は徳三。幼少より祖父、父のもとで絵を学び、上方絵の伝統的画法の修行を重ねつつ成長した。青年時代は始め、2代目信広と名乗り、昭和15年(1940年)に父(3代目小信)が3代目貞信を襲名した後に4代目長谷川小信を襲名した。その後、昭和43年(1968年)から、4代目長谷川貞信と名乗った。昭和38年(1963年)に文楽協会が設立された時、道頓堀文楽座から改名した「朝日座」の支配人が貞信宅を訪れ「上方絵を残したい」と文楽の絵看板を依頼したが、「看板は描けへんから」と一旦は断ったという。しかし、上方絵を後世に残すことを考えて引き受け、以後、公演ごとに描き続けた。その看板絵は現在、国立文楽劇場を軸にしておよそ200~300枚残っているといわれる。主に肉筆浮世絵、芝居絵、風景画、風俗画を描いたが、歌舞伎の番付などの原画や文楽の劇場看板に新境地を開き、大阪府枚方市にあるひらかたパークの菊人形の振付原画なども手掛けている。また、菊人形のポスター、パンフレット表紙などの原画作成にあたり、その構図や色彩に独特の世界を創出してきた。大阪の日本画美術団体有秋会に属し、代表委員として新人育成にも努めた。こうした長年の文化功労に対して、昭和49年(1974年)に大阪市から市民表彰を授与された。平成11年(1999年)5月2日、腎不全で死去した。享年84。

※5代目(1946~)/4代目長谷川貞信及び中村貞以の門人。本名は長谷川笑子。4代目長谷川貞信の長女。父に絵を学んだ後、中村貞以に師事した。主に国立文楽劇場の絵看板、松竹座や南座の番付の挿絵を描いている。2003年(平成15)5代目長谷川貞信を襲名した。


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★大阪商法会議所跡

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009606.html

天下の台所として繁栄していた大阪も、明治維新により致命的な打撃をうけた。このため大阪の経済発展を願って、会議所設立の気運が高まり、明治11年8月その開設をみた。初代会頭となった五代友厚らの情熱と、すぐれた経済感覚により建て直しがはかられ、今日の大阪発展の基礎を確立した。★昭和3年に名称「大阪商工会議所」となり、現在に至っている。

NEWS》【三菱東京UFJ銀行大阪ビル】(旧三和銀行本店ビル)」

大阪市中央区伏見町3-10-1、中央区高麗橋3-30

http://www.bk.mufg.jp/kigyou/origins/index.html

2014.10.15解体工事/2015.7月本体工事/2017.11竣工予定

かつての三和銀行本店ビル。その後は三菱東京UFJ銀行の大阪拠点として大阪中央支店、大阪営業部などが置かれていた。 2013年10月、建て替えのため、同行は大阪三菱ビルに仮移転。 ビルは御堂筋沿いの高さ規制緩和措置を受け、高さ104mの超高層ビルへと建て替わる。三和銀行は、在阪3行が1933年に合併して誕生した。1993年3月期決算で 業務純益、経常利益、純利益で都市銀行トップとなる「都銀三冠王」を達成、店舗数も国内銀行ではじめて1千店を超えるなど隆盛を誇った。しかしバブル崩壊とともに経営環境も悪化。2002年に東海銀行などと合併しUFJ銀行に。 2006年に東京三菱銀行と合併し三菱東京UFJ銀行となった。


・・・現在は、建て替え工事中のため「大阪商法会議所跡」碑を確認することはできません。

《三菱東京UFJ銀行大阪中央支店》

530-0004大阪市北区堂島浜1-1-5大阪三菱ビル/06-6209-7501

大阪・御堂筋沿いの「三菱東京UFJ銀行大阪ビル」の本館と別館の建て替え計画の詳細が分かった。本館は21階建て最高高さ104・50㍍、別館は18階建て93・99㍍で、主要用途はいずれも事務所(銀行)。三菱東京UFJ銀行が建築主となり、設計は三菱地所設計・東畑建築事務所JV、施工は大林組・錢高組・大末建設JVが担当する。両館とも15日から解体工事を始める。新築工事は別館が2015年5月末から、新館は7月末から着手し、ともに17年11月末の完成を目指している。延べ計8万平方㍍規模の大型オフィスプロジェクトがいよいよ始動する。

当店と大阪営業部は、2006年(平成18)2月20日(月)より同じ建物内で営業させていただいております。また、2013年(平成25)10月15日(火)より下記住所へ移転いたしました。本移転に伴う店番・店名・口座番号の変更はございません。



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《商工稲荷神社》

大阪商工会議所初代会頭の五代友厚は信仰心に厚く、当時武家階級をはじめ大阪商人からも崇敬の念を集めていた船場淀屋橋の★「御霊神社」に、大阪の商工業発展のため商工稲荷祭の神事の挙行を求めたのが、「商工稲荷神社」の縁起とされています。おそらく、五代が会頭であった明治12年1月に現在の中央区高麓橋三丁目★三菱東京UFJ銀行大阪営業部あたりに、当時の大阪商法会議所事務所を新築していることから、その頃に奉祀されたものと思われます。その後、事務所は明治24年3月に北区堂島浜★現在のNTTテレパーク堂島付近に移転しますが、同神社も同じく移転されました。


・・・ここには、五代さんの「精藍所」もありました。

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・・・「西町奉行所」に「稲荷神社」があったかどうかを調べてみましょう。


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・・・屋敷図を拡大してみますと、ありました・ありました。