・・・大阪管区気象台跡の碑と出会い、思い出したことがあります。柳田邦男さんの「空白の天気図」を読み、深く感銘を受けたことがありました。
作品の舞台は昭和20年9月17日。終戦直後の日本列島を襲った枕崎台風は、各地に甚大な被害をもたらしました。被害者6208人(死者2,473人、行方不明者1,283人、負傷者2,452人)を記録した「枕崎台風」です。その中でも広島県下における被害者は3066人(死者行方不明者2012人、負傷者1054人)と群を抜いており、台風が上陸した九州地方よりも甚大な被害者となりました。昭和30年代にNHK取材記者として広島に滞在した柳田氏はこの被害者分布に興味を持ち、その1ケ月前に起きた人類史上初の原子爆弾投下による被害との因果関係があるのではないかと直感した自身の気持ちをモチーフとして温め続け、作品として昭和50年(1975年)9月に本書を発刊しました。人類最初の原爆による惨禍から、わずか一カ月。廃墟の街で、人々はどのような災害に巻き込まれたのか。気象台は何をしていたのか。綿密な取材によって明かされる、天気図の空白に秘められた知られざる真実。
・・・また、今は退職されていますが、友人の大学時代の同級生が大阪管区気象台長をされており、親しくお話させていただいたことがありました。「台長」って、スゴク偉い人だと後で知ってビックリ。
《参考》大阪管区気象台
540-0008大阪市中央区大手前4-1-76大阪合同庁舎第4号館
http://www.jma-net.go.jp/osaka/index.html
大阪管区気象台は第4合同庁舎の16~17Fにある。合同庁舎には国土地理院「近畿地方測量部」も入っていて、一等水準点が入口横にありました。
http://www.gsi.go.jp/kinki/index.html
《参考》2016.1.19THE PAGEより
http://www.tsutenkaku.co.jp/index.html
通天閣の天気予報ネオンは1979年からはじまり、日本気象協会関西支社(大阪市中央区)の職員が専用端末回線を使って操作し点灯する仕組みとなっている。晴れは「白色」、曇りは「オレンジ色」、雨は「青色」雪は「ピンク色」に点灯し、晴れ時々曇りなどの場合は、上半分が白色、下半分がオレンジ色に点灯し予報を知らせている。通天閣観光の西上雅章社長が「ネオン管ではピンク色が見えにくい」という理由で、今年中に天気予報ネオンをLEDに変える方針を表明していることから、ネオン管での天気予報は見納めかもしれない。
・・・ちょっと脱線しましたが、生野区にもどりましょう。
《御勝山公園》
http://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000016.html
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれていますが明らかではありません。
【御勝山古墳】
大阪市生野区勝山北3-16
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009131.html
岡山ともいわれ、前方後円墳であったと推定される。大坂冬の陣のとき、徳川秀忠の陣所になり、戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになったという。
上町台地の東縁部の河内平野を望む低い丘陵上に立地する御勝山古墳は古墳時代中期の5世紀前半に造られた。慶長19~20年(1614年~15年)の大阪の陣で徳川方の本陣が置かれたため、著しく墳形が破壊され、いまは後円部が残っているだけである。1973年(昭和48)の発掘調査で埴輪や葺石が発見されているが、被葬者は不明である。そして全長120m、濠を含めると約150mの中規模の前方後円墳であると推定されるに至った。昭和62年3月 大阪府
《はばたけ平和の空へ》作:今村輝久
1918大阪市に生まれる
1942東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒業
1953全関西美術展、大阪市立美術館、審査委員就任
1958京都成安女子短期大学美術科非常勤講師に就任
1962-71イスパア国際造形芸術協会を結成し出品
1966夙川学院短期大学美術科教授に就任
1968大阪彫刻家会議を結成
1984京都精華大学非常勤講師に就任
1986大阪市南港緑道コンペ白鳥のモニューメントの選考委員
1987宝塚造形芸術大学(現・宝塚大学)教授に就任
1988大阪市中之島緑道彫刻コンペの選考委員
2004死去
・・・どこかで見た彫刻だと思っていたら、「天王寺公園(てんしば)」にあるのと同じ作品でした。
《参考》戦後の関西現代美術の基盤をつくってくれた彫刻家/文:福岡道雄
大阪市立美術研究所に通い始めた頃、講師は今村輝久。フェスティバルホールの壁面彫刻のアルバイトがあるから、君来ないかと誘われた。行動美術の会員ばかり八人、若いのが三人ほど。信楽の寒い二月。十代は僕だけで、そこで建畠覚造や向井良吉に会えた。今村輝久は彼らと東京美校(現芸大)の同期生である。池袋西武デパートで開催された、集団現代彫刻展に推薦してもらえて、日本の現代彫刻の主だった人達、堀内正和、山口勝弘、若林奮、荒川修作に会えたことは嬉しかった。何故か、大阪の平川正道と村岡三郎にも、この展覧会の陳列で東京で初めて会ったのだ。緑色の唐草模様の一反風呂敷を二枚で包み、セメント製の40センチ角の彫刻はまだ水分をたっぷり含んでいて50キロ強。多分徹夜で石膏を割ったのだろう、あちこちに石膏カスがついている。集団現代彫刻展に出品する今村さんの作品である。難波の港町駅から夜行列車の連結部に置いて、僕は時々様子を見にいく。夜になると、足元にも、通路にも、網棚にも皆、丸くなって寝ている。東京駅に着くと長いホームを赤帽が改札口まで運んでくれた。それからどうしたか記憶がない。その夜、上野の森にあった小さなラブホテルに泊まる。四畳半の畳の部屋に小さな姫鏡台と艶かしい布団がひいてあった。もう一つ布団をと、今村さんが言う。百円頂きますと従業員の女性。男同士ラブホテルに行ったのはこれが最初で最後。まだ、そういう時代であった。当時、何故か、デパートと新聞社が現代美術にちからを貸してくれていた。天王寺公園の中にある大阪市立美術研究所は半地下にあり、僕はそこで四年程好きな仕事をしていた。今村さんは週に二回講師として観にこられた。別にたいしたことは言われなかったが、ぴしっ、とか、ぴたっ、とか言う言葉をよくいわれたのを覚えている。今村さんの作品が正にぴしっ、しゃあ、すきっ、としている。そういう表現が好きな作家だった。そういう意味では僕と全く相反していたのに、彫刻の話になると熱くなられた。戦後しばらくは皆大変な時代で、特に、戦前の教育を受けた先輩たちは、何とか早く、ジャコメッティやヘンリー・ムーア、ザッキン、そしてブランクーシに追いつこうと懸命である。大阪上六の駅から歩いてすぐの所に漆喰が落ちた土蔵だけが幾つか残っていた。空襲で焼け残った建物だ。その一つに今村さんの住居とアトリエがある。今もある。先代は江戸時代から続く鋳物屋で釣鐘などをつくっていたとよく聞いた。だから、ブロンズに興味があるのかな?と思っていたが、あの粘っこい重々しさ気に入らなかったのか、アルミニウム作品が多い。宝塚駅前にある床置きのモニュメントは一番今村輝久らしい気張らない彫刻である。あまり誰も知らないのが、天王寺や上六界隈で二人でよく玉を突いていたことである。ビリヤードだ。僕はせっかちな玉を突くが、今村さんはよく考える。突くのかと思ったら、やめて、また考える。歳をとられてからも体型は少しも変わらず、静かで落ち着いた方だった。若い人達の面倒見、行動美術、創造美術、大阪彫刻家会議などおおくの世話をしてこられた。十年前、老衰で他界されたが、老衰とは一番格好いい。今村輝久は僕の先生でもある。しかし、先生とは一度も言ったことがなかった。何故だろう、と今でも思う。