【大阪市交通局技術部電力課谷町9丁目変電所】
542-0012大阪市中央区谷町9-5-10
重願寺は、かつてこの地にあったが昭和38年谷町筋道路拡張のため東大阪市に移った。谷町筋に面した大阪市交通局の建物の植込みの中に、ここに「重願寺」があったことを示す石碑が建てられている。
・・・はじめ、石碑に刻まれている「重願寺」という文字が解読できなくて、調べるのに苦労しました。
《大阪府全志より》
重願寺は同町(谷町8丁目)の南部西側にありて海宝寺と対す。本誓山当智院と号し、浄土宗知恩院末にして阿弥陀仏を本尊とす。本尊は恵心僧都の作なりと伝う。文禄3年5月18日檀家の協力を得て、西蓮社岸誉上人雲海大和尚の開創なり。同和尚は当寺の外、伏見に西岸寺・京都に石像寺を建て、寛永20年7月25日125歳を以て石像寺に寂す。現在の堂宇は寛文7年3月25日5世空阿上人の再建にして、本堂・庫裏・書院・小座敷・玄関・鐘楼堂・土蔵・薬医門を存す。外に鎭守堂・観音堂あり。観音堂に安置せる如意輪大悲は聖徳太子の刻なりと伝う。境内は492坪を有し、墓地に刀工井上新開、書家三瓶信庵・及びひぜん薬の本元たる小山伯鳳の墓あり。
・・・はじめ、石碑に刻まれている「重願寺」という文字が解読できなくて、調べるのに苦労しました。
《大阪府全志より》
重願寺は同町(谷町8丁目)の南部西側にありて海宝寺と対す。本誓山当智院と号し、浄土宗知恩院末にして阿弥陀仏を本尊とす。本尊は恵心僧都の作なりと伝う。文禄3年5月18日檀家の協力を得て、西蓮社岸誉上人雲海大和尚の開創なり。同和尚は当寺の外、伏見に西岸寺・京都に石像寺を建て、寛永20年7月25日125歳を以て石像寺に寂す。現在の堂宇は寛文7年3月25日5世空阿上人の再建にして、本堂・庫裏・書院・小座敷・玄関・鐘楼堂・土蔵・薬医門を存す。外に鎭守堂・観音堂あり。観音堂に安置せる如意輪大悲は聖徳太子の刻なりと伝う。境内は492坪を有し、墓地に刀工井上新開、書家三瓶信庵・及びひぜん薬の本元たる小山伯鳳の墓あり。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108センチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原時代の特徴を残しています。多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様式の優美な観音様です。この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、★近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいくつ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。現在重願寺は近鉄奈良線『額田駅』改札口前を山へ200Mの坂道を登ったところにあります。元は真言宗不動寺の後で別名「長尾寺」といい、★慈雲尊者ゆかりの寺でしたが、明治6年に廃寺となりました。大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真改墓碑』2代目★桂文枝の『桂塚賛成者碑』など様々な石碑が奉られています。隣接する山は生駒山系にあるため、猪、野鳥、タヌキなども住んでおり、季節ごとに桜、さつき、しゃくなげ、蓮、紅葉と四季を感じることができます。
《桂塚》
「幾千代も円かれ 花の桂影」二世文枝
明治時代、天下茶屋に「桂塚」という石碑があったそうで、この碑には上方落語・桂一門の系譜を刻んであったそうです。昭和15、16年ぐらいまではあったそうなのですがその後、倒れたか埋まったか行方不明になったのだそうです。平成9年に5代目桂文枝師匠の紫綬褒賞受賞の記念に復活させたそうで、建てることに賛同した上方と東京の落語家の名前が碑の裏に刻まれています。
《井上真改》
寛永7年(1630年)~天和2年11月9日(1682年12月7日)江戸時代前期に摂津国で活動した刀工である。本名は、井上八郎兵衛良次。
寛永7年(1630年)、刀工であった井上国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれる。9歳のとき、当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始める。10代の後半には既に一人前の刀工としての力量を示し、20歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれる。作刀は、殆ど大坂で行われた。慶安5年(1652年)、24歳で父の死去に伴い襲名。飫肥藩伊東家から父同様150石を与えられる。同年中の承応元年(1652年)、25歳の時に「和泉守」を受領(ずりょう)。銘を「和泉守国貞」と切る。寛文元年(1661年)、朝廷に作品を献上したところ賞賛され十六葉菊花紋を刀(なかご)に入れること許された。この頃より銘を「井上和泉守国貞」とした。寛文12年(1672年)8月より、儒者の熊沢蕃山の命名で「真改」と改称。銘も「井上真改」と切った。天和2年11月9日(1682年12月7日)、急逝。食中毒とも一説に大酒の後、井戸へ転落したとも言われる。享年53。
《重願寺阿弥陀如来坐像・聖観音立像》平成9年3月東大阪市
寺は本誓山と号し、もと大阪の谷町にあり昭和三十七年に墓地と共に現在地へ移されてきた浄土宗の寺院です。寺は、豊臣秀吉の本願で、文禄年間(1592~1595)に岸誉雲海上人の開基と伝えられています。本尊の木造阿弥陀如来坐像は、像高140cm、頭高46cm、膝張108cmで、木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い重弁蓮台に座しておられます。台座、光背は、江戸時代の後補ですが、そのお顔や衣は、藤原時代の特徴を残しています。多宝塔におまつりされています聖観音立像は、高さ105cm、お顔は温和で、前面下半身は、衣文の彫りも浅く扁平です。両手、天衣、金具、台座を後補していますが、藤原様式の優美な観音像です。この観音像は、大坂三十三所観音巡りの第十七番として、江戸時代以来信仰され、近松門左衛門作「曽根崎心中、附り観音巡り」の中にも「第十七番に重願寺、ここからいくつ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む」と見えており、昔から有名な観音であったことがわかります。昭和四十九年三月に市の有形文化財に指定されています。重願寺のある所は、もと真言宗不動寺の跡で、額田の高内皆人の草創した寺と伝えています。別名長尾寺といい、慈雲尊者ゆかりの寺でしたが明治六年に廃寺となりました。境内には、慈雲尊者の歌碑も保存されています。
《NEWS》声明でジャズの巨匠偲ぶ、愛弟子と長女、歌を奉納/大阪・重願寺
「ナイアガラの滝」と称される激しい演奏で、日本にモダンジャズブームを巻き起こした米国の大ドラマー★アートブレイキーの15回忌法要が2005年7月11日、東大阪市の重願寺で、小西行雄住職を導師、住職が主宰する声明の会「五音の会」の会員を式衆に営まれた。施主となったのは、ブレイキー愛弟子の浄土宗教師、豊田晃師。小西住職は師の修行時代の先輩で、故人の10回忌も重願寺で営まれた。法要の後には、豊田師らの演奏をバックに、ブレイキーの長女エブリンさんが、ゴスペル、また、豊田師がジャズのリズムで「南無阿弥陀仏」をとなえる、自作の念仏ソングを奉納(写真)、偉大な音楽家の生涯を偲んだ。
・・・素敵なお寺で、遠路訪問した甲斐がありました。