・・・「北野恒富」の美人画を現代に蘇らせた絵師がいます。地下鉄「肥後橋」で降り美術館まで歩きます。フェスティバルタワー、そして《あさが来た》の「大同生命ビル」がそびえています。
《肥後橋》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000024046.html
江戸時代、肥後橋の北詰の中之島に肥後藩★蔵屋敷があり、このあたりは肥後島町と呼ばれた。1657年(明暦3)の「新板大坂之図」には肥後殿橋とあり、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。肥後藩の蔵屋敷は元禄時代になって中之島西部の越中橋北詰へ移転したが、橋名と町名はそのまま残った。肥後橋が渡辺橋の通りに移ったのは明治21年に鉄橋化されたときからである。18年の洪水で流失した後、渡辺橋と共に鉄橋で架けられた。肥後・渡辺橋の通りは、明治7年にすでに造られていた大阪駅へのメインストリートであったため、早く鉄橋化されたものと思われる。大正15年に第一次都市計画事業によって完成した橋は、中央部がスパン27.0mの鋼アーチよりなり、両側に橋台兼用のコンクリートアーチがあった。意匠の様式はスパニッシュルネッサンス式と呼ばれ、河川上の橋脚の位置に豪華な飾塔を立て、非常に華やかで、かつ重厚な作りの橋であった。この橋も戦後になって四ツ橋線の地下鉄3号線を通す工事に伴って架け替えられた。円盤状の支柱をもつユニークな高欄をもっていたが、平成6年に橋面と高欄部の改装が行われ、より華やかなデザインのものになった。
《大同生命大阪本社2階メモリアルホール》
550-0002大阪市西区江戸堀1-2-1/06-6447-6111
一般公開中の特別展示『大同生命の源流"加島屋と広岡浅子"』、おかげさまで本展示は、2015年7月のリニューアルオープンから8ヵ月間で、累計7万人を超える方のご来場がありました。このたび、こうした状況を踏まえ、開催期間★平成28年9月30日(金)まで半年間延長しております。大坂の豪商「加島屋」。当展示では当社が保管する貴重な史料に基いて、「天下の台所」大坂の米ビジネス等についてご紹介します。七転び八起きを超える九転十起のがんばりで、「加島屋」を切り盛りし、大同生命を興した「広岡浅子」。女子教育にも心血を注ぎ、日本女子大学校の創立にも関わった女性実業家「広岡浅子」の波瀾に満ちた生涯をご紹介します。
【山内ビル】登録年月日:20000428
大阪市西区土佐堀1-1-4
肥後橋周辺では唯一の近代建築。昭和初期、昭和5~7年頃の竣工と考えられている。地下1階、地上4階建ての鉄筋コンクリート造。設計は今北乙吉(1894~1942)、現存する作品は極めて少なく貴重です。テナントビルとして、戦後間もない頃から近年まで「青楓グリル」という西洋料理店があったが閉店。
●「里山カフェ」2014年4月26日に閉店。
http://ameblo.jp/satoyamacafe/
●「Patisserie a la Rive (パティスリー・アラ・リーヴ)」2014年10月3日オープン。しかし残念ながら、昨年より閉店しています。大雨でオーブンが濡れて閉店したとの噂もありますが、真相は不明。またまた★改装工事中でした。
《水上瀧太郎(1887~1940)文学碑》
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058558.html
水上瀧太郎(本名:阿部章蔵)は、1887 0年(明治2)東京都麻布区飯倉町三丁目(現港区麻布台二丁目)に生まれ、1940年(昭和15)3月23日死去した。御田小学校(現港区立御田小学校)、慶応義塾普通部を経て慶応義塾大学にすすんだ。兄の蔵書で文学への目が開かれ、泉鏡花、与謝野鉄幹・晶子に心酔した。大学在学中の明治44年、永井荷風の主宰する『三田文学』に「山の手の子」を発表し、久保田万太郎とともに三田派の新進作家として注目をあびた。明治45年大学卒業後、アメリカのハーバード大学に留学し、その後ロンドン、パリを経て大正5年帰国、父・阿部泰蔵の創業した保険会社(明治生命)に入社した。以後、死去するまで「会社員としては最も勤勉であり、作家としては最も純粋」をモットーとして二重生活を続けた。大正6年、大阪支店副長として赴任し、大正8年東京に戻るまでの間、東区島町一丁目の高橋館や西区土佐堀通二丁目の照月旅館に止宿した。大正15年、休刊となったいた『三田文学』を復活し、名実共にこれを主宰して同誌を中心に活躍する一方、後進の育成には特に力を尽くした。その作風は、当初の抒情的傾向から次第に現実主義に移行し、さらにロマンティシズムとリアリズムの渾然と融合した作品を経て、晩年の円満な作風を大成したといわれている。代表作「大阪の宿」は、長編小説「大阪」と姉妹篇的な構成をとった作品で、主人公をめぐって大阪人気質の様々な登場人物を配し、水の都のそこはかとない哀愁と季節の移り変わりを淡々と描いたもので、市井の日常にあわただしく生きながらも、しみじみと生の美しさを感じさせてくれる作品であると評されている。墓所は、東京都府中市多磨町四丁目の多摩霊園。
★水上瀧太郎「大阪の宿」より
三田は変に寂しかった 欄干に近く遙々と見渡される 澄み渡った星空の下を 静に下る川船の櫓の音が ぎいと冴えて聞こえて消えて行く
【大阪市顕彰史跡第178号】
1962年(昭和37)吉原治良が自ら所有する江戸時代末期の土蔵の内部を改造して設立した現代アートの美術館である。吉原は1905年(明治38)大阪淀屋橋の生まれで、製油会社の社長という実業家である一方、画家であり、前衛美術運動に指導的役割を果たした。グタイピナコテカ(GUTAI PINACOTHECA)は大阪万博が開催された1970年(昭和45)の都市計画によって取り壊されるまでの7年半、吉原を中心とした「具体グループ」の作品だけでなく、内外の現代美術作品を展示し、日本における現代アートのメッカとして世界各国の美術関係者に知られていた。
《2014「三井ガーデンホテル大阪プレミア」》
基本設計:日建設計/実施設計・施工:清水建設
530-0005大阪市北区中之島3-4-15/06-6444-1131
http://www.gardenhotels.co.jp/osaka-premier/
ホテルは、行燈のような照明や軒のデザインを取り入れたラウンジなど、洗練された「和」を体現している館内、上品な落ち着きある雰囲気です。レセプションの奥には、具体美術協会の第2世代を代表するアーティスト★前川強氏の作品が飾られています。
http://www.maekawaart.com/index.php
・・・そして、ようやく「国立国際美術館」が見えてきました。
◆【国立国際美術館】◆
530-0005大阪市北区中之島4-2-55/06-6447-4680
国立国際美術館は、1977年、国内外の現代美術を中心とした作品を収集・保管・展示し、関連する調査研究及び事業を行うことを目的として開館しました。建物は、1970年の★日本万国博覧会開催に際して建設された「万国博美術館」を活用し、以来、わが国の現代美術の発展を願い、活動を継続してきました。その間、竣工以来30余年が経ち、施設の老朽化などに問題が生じてきたため、大阪★中之島西部地区に、完全地下型の美術館として新築、移転することになりました。新しい美術館では、現代美術を発信する美術館として従来の活動を継承しながら、よりいっそう国内外の美術の動向を幅広く紹介し、みなさまの多様な期待に応える活動に積極的に取り組んでいきます。建物は、竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージした外観デザインを有し、人と美術との交流を生み出すパブリック・ゾーンを設けるなど、より快適な鑑賞の場を提供できるよう工夫しました。歴史と文化を継承する中之島における新たな文化の拠点として、今後、みなさまに親しまれる施設となることをめざします。
・・・杮落としは尊敬する「マルセル・デュシャン」展でした。以来、この美術館を愛してやみません。そして今回、現代大阪画壇を代表する★「森村泰昌」さんの個展が開かれることを知り、ずっとずっと待ちわびていたのです。