・・・あまり知られていませんが、大阪城公園には「淀君之霊」の碑もあります。
・・・「城中焼亡埋骨墳」の横にひっそりとあるのが、「淀君の霊」の碑です。残念ながら、折れたのか折られたのか、立てかけてある状態です。裏書きを見ますと「昭和42年10月建立・築地」となっています。碑の正面と思われる石台には「吉村氏」と刻まれています。
【城中焼亡埋骨墳】(慶応四年辰歳七月、薩州・長州建之)
1868年(慶応4)新政府軍との戦いに敗れた旧幕府軍が大坂城から退去する際、逃げるのを嫌った一部の幕府方兵士たちが、燃える城を枕に自害したといいます。これをたたえた新政府軍の薩摩・長州両藩の有志が建立したのがこの石碑で、のちに「残念さん」と呼ばれ、どんな願いもかなえてくれると人々の信仰を集めました。
・・・ここまで来て「ピースおおさか」を素通りするわけにはいきません。
【ピースおおさか】
540-0002大阪市中央区大阪城2-1/06-6947-7208
ピースおおさかは、1991年(平成3)平和の首都大阪の実現をめざし、大阪府民・市民の協力のもと、世界平和に貢献することを目的に、大阪における平和の情報発信基地として開館しました。以来23年余が経ち、これまでに延べ188万人にのぼる多くの方々に来館いただくことができました。戦後70年を迎え、戦後生まれが総人口の4分の3を超えた今日、戦争の記憶を風化させることなく、次の世代に戦争の悲惨さと、平和の大切さを伝えていくというピースおおさかの役割はますます重要になっています。開館以来初めてとなるこのたびの★展示リニューアルでは、来館者にとって身近な地域の出来事である★「大阪空襲」を中心に取り扱うこととしました。また、次代を担う子どもたちが、この大阪で起こった空襲の実相や大阪と戦争の関係を通して、戦争の悲惨さ、戦争の背景を理解するとともに、平和を自分自身の課題として考えることができる展示をめざしました。歴史に学ぶことは、過去の時代を追体験することであり、このことを通じて、現在を考え、そして未来の方向性を見定めるヒントを得ることができます。そこで、現代とは大きくかけ離れた時代背景のもとで、当時の人々がいかに生きたかを、できるだけ体感しながら理解していただけるようにしました。展示に当たっては、当時の国際情勢を踏まえつつ、なぜそのような経緯を辿ったのか、時代の推移や背景をできるだけ明示するように努めました。また、空襲とともに戦後復興も大阪の記憶として引き継ぐため、その時代を生きた人々の苦労と頑張りを大阪の街の発展とともに紹介するコーナーを新たに設けました。さらに、海外からの来館者に対する多言語の音声ガイドを新たに導入するなど、内外のより多くの人に理解していただけるように努めました。今なお、世界では戦争や紛争が絶えません。わが国もかつて戦争により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました。また、唯一の被爆国として多くの尊い命を失いました。戦争の悲惨さを知り、体感しさえすれば、それで平和が訪れるものではありません。平和とは何か、そのために何をすべきか、何ができるかを、私たち一人ひとりが考え、今できることを地道に実現に移すことが、求められています。ピースおおさかは今後も、大阪空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念するとともに、大阪空襲を通して戦争の悲惨さ及び平和の尊さを次の世代に伝え、平和を願う豊かな心と確かな見識を育み、もって世界の平和に貢献するための大阪における平和ミュージアムとして、多くの皆様にご利用いただけるよう、努力を重ねてまいります。2015年(平成27)4月30日
《NEWS》2015.4.30産経WESTより
「南京大虐殺」写真廃棄、慰安婦展示も撤去/偏向展示・自虐史観と批判受けピースおおさか改装オープン
大阪府と大阪市が共同出資する財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか、大阪市中央区)が、いわゆる「南京大虐殺」の写真といわれながら信憑(しんぴょう)性が疑われるものや、著作権が確認できない写真を廃棄処分し、慰安婦に関する展示を取りやめるなどしたうえで、30日に改装オープンすることが、関係者への取材で分かった。府議や市議らから「自虐的」と批判されたことを受け、展示内容を精査した。改装前の3つの展示ゾーンのうち、展示室B「15年戦争(満州事変から第二次大戦まで)」には慰安婦に関する展示があったほか、日中戦争中に旧日本軍が行ったとされ、信憑性をめぐって議論が分かれている「南京大虐殺」のコーナーもあり、中国人の頭部とされる写真などが展示されていた。改装後は旧日本軍の加害行為についての写真や資料のほか、慰安婦に関する展示を取りやめ、大阪空襲の被害に関する展示を中心に再構成。日清戦争から終戦までの約50年の経緯を約14分間の映像にまとめた。関係者によると、ナレーションで「日本軍による南京事件、重慶爆撃では多数の住民が犠牲となった」と説明。昭和12年に中国人部隊が日本人居留民らを殺害した通州事件についても、新たに「通州などでは日本の軍人、居留民が犠牲となった」と触れた。また、「南京大虐殺」のコーナーに展示されていた中国人の頭部とされる写真や、女性や子供を含む遺体の写真などは著作権の許諾処理がなされておらず、信憑性を疑う意見もある上、保管場所にも余裕がないため廃棄処分した。一方、府民から譲渡された資料は、改装後も常設・特別展で引き続き展示する。ピースおおさかの「南京大虐殺」に関する展示をめぐっては、市民団体や府市議らから、当時のデータや証言を踏まえ、「大虐殺はなかったとする研究結果も出てきた」「旧日本軍を悪逆非道な存在と決めつけ、でっち上げや捏造(ねつぞう)がある」などと虚構性を訴える声が上がり、橋下徹前知事(現大阪市長)が展示のあり方について「府民の意思を反映すべきだ」と指摘。改装のため閉館していた。
《シーラカンス》
公開建築設計コンペにより、若き建築家集団★「シーラカンス」が当選した平和施設建築。シーラカンスという設計事務所は、東京大学大学院★原広司研究室で共に学んでいた6人のパートナーが集うところから誕生しました。この建築は初期の代表作です。様々な形の屋根は異なる国家や民族の共存を表しているそうです。大阪城公園側の緑に面した複雑な屋根形の集まりと反対道路側の大きなボリュームから成るファサードの差異は敷地条件の差異をそのまま表現していて、原広司さん設計の「ヤマトインターナショナル」と共通のデザインテイストが感じられます。この場所と施設にふさわしいオンリーワンの建築となっています。
《刻の庭》
http://www.peace-osaka.or.jp/museum/tokinoniwa.html
戦後60年にあたる2005年(平成17) 8月、ピースおおさか中庭に、「大阪空襲死没者を追悼し平和を祈念する場」が完成し、翌年、愛称を公募して「刻(とき)の庭(にわ)」と名づけられました。「刻(とき)の庭(にわ)」のモニュメント銅板には、第二次世界大戦末期の大阪空襲で犠牲となられた一人ひとりの名前が「とき」の証人として「刻(きざ)」まれています。平和を願う心が「刻(とき)」を超えて生き続けるようにとの思いをこめて名づけられたのです。ここを訪れた人々が、「とき」を振り返り、犠牲者の恐怖や無念さに思いを馳せるとともに、今ここに生きている私たちが、平和の重み、平和であることの尊さを今一度噛み締める場となっています。8回の大空襲にちなんで8個のさまざまな形の鐘が「音の出るオブジェ」として配置され、ここを訪れた人々が平和への願いを込めて打つと、さまざまな音色をかなでます。また、悲惨な空襲体験を次世代に継承するため、見学に訪れた約1万5千人の子ども一人ひとりに、5cm角のタイル地に「平和への思いや願い」を刻んでもらい、2009年(平成21)3月「刻の庭」壁面タイルが完成しました。
《1945年の母子像》作:粟津潔
倒れている母親が赤ん坊を手に抱えて守っています。お母さんのお腹がえぐれているのは戦争によって傷ついたことを表現しています。平和を祈念するとともに15年戦争で亡くなった方々を追悼するものです。