淀殿(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《弁天橋》

1879年に大坂城京橋口から青屋口にかけて大日本帝国陸軍「大阪砲兵工廠」が建てられ、明治末年までに玉造口や弁天島に拡張されました。戦後、不発弾が多く危険という理由で、1960年代中頃まで更地のままでした。その後、再開発計画により新たな街づくりを進め、「大阪ビジネスパークが誕生しました。東区弁天町という町名でしたが、港区に弁天町駅が開業し地名として定着したため、東区弁天町は1979年「城見」に改称されました。しかし、現在も★「弁天橋」や★「弁天抽水所」などに弁天の名が残っています。「弁天橋」は1976年に玉造筋の延長に伴い現在地に架け替えられ、もとの架橋地点には1983年に「大阪城新橋」が架けられています。


しぎの1


《大阪ビジネスパーク》 http://www.obp.gr.jp/

540-6131大阪市中央区城見2-1-61(ツイン21MIDタワー31F)/06-6946-1310

この地は、旧大和川や平野川、猫間川など河川が合流する中州で、水運の要所でした。また、大坂城の北東すぐの場所に位置することから、石山合戦や大坂の陣の古戦場でもあります。もと東成郡鴫野村の一部で、大坂夏の陣で自害した「淀殿」を葬ったとされる弁天祠があったことから、「弁天島」と呼ばれました。


しぎの2


《新鴫野橋》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000023852.html

江戸時代、現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に★「鴫野橋」という公儀橋があった。この橋は大坂城の城内にあり、一般の人々が利用できない公の性格の強い橋であった。初めて架けられた時期は明確でないが、豊臣時代の城絵図や冬の陣・夏の陣を描いた絵には見あたらず、この時期にはまだ架けられていなかったものと思われる。明治になって「弁天島」の地が軍の用地となり、橋も陸軍の施設となったため、橋に関する詳細は伝えられていないが、この時期に鉄橋になった。その後の新鴫野橋は、橋長約55m、幅員8mの規模で、昭和10年3月に架け替えられたものと伝えられている。近くの寝屋川には、地名から「鴫野橋」と命名された橋があるが、戦後、軍管理の橋が大阪市に引き継がれる際に★「新鴫野橋」と命名されたため、公儀橋の鴫野橋とは場所が入れ替わってしまった。近年の発掘調査で発見された大坂城の石垣の配置からも、古い鴫野橋が現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に架けられていたことが確認されている。現在の橋は昭和63年に架け替えられたもので、擬宝珠が付けられ、由来碑も整備されている。


しぎの3


【豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地】

豊臣秀頼とその母・淀殿および臣下の武将や侍女たち30余名が、大坂夏の陣で自決した場所だとされています。


しぎの4


【淀君並殉死者三十二名忠霊塔】

・・・碑に刻まれているのは、大野治長、大野治徳、速水甲斐守時之、速水出来丸、毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎、津川親行、竹田永翁、堀対馬守、武田左吉、森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝三郎、真田大助、萩野道喜入道(氏家行広)、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局、宮内卿の局、右京大夫局、玉の局、饗庭局


しぎの5


・・・「淀殿」の墓所「太融寺」へ。