菅楯彦(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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菅楯彦さんの父・大治郎は画才があり、四条派の画家塩川文麟に師事し、盛南の画名をもったほどのプロ級の腕前でした。明治維新で藩は解体され、武士たちは職を失いますが、大治郎は絵画で身を立てようと妻子をつれ大阪に移り★南堀江(西区)に居住、商家の注文に気軽に応じて生活費を得ます。ところが藤太郎が12歳のとき、突然卒中で倒れ、寝たきりになりました。1889(明治22)年★高台小学校高等科第二年を中退し、一家を支えるため絵事に専念しました。藤太郎が代わって提灯やうちわ★ふすま絵などを描きますが、なんといってもまだ子ども、注文が激減します。母の必死の内職も療養費の一部にもならぬ状態で、たちまち「赤貧洗うが如し」という悲惨な貧困生活になり、そのどん底で父は死亡しました。

・・・菅楯彦さんは、1920 年(大正9)から大阪市南区天王寺常盤通(現★大阪市阿倍野区松崎町)に住んでおられましたが、それ以前の住まいについて調べてみました。


ほりえ1


高臺(たかきや)小学校跡

550-0015大阪市西区南堀江3-5(堀江中学南東角)

http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=j562152&frame=enkaku

明治5年西大組第十八区小学校(元紀州候邸跡)12年に高臺(たかきや)小学校と改称され、20年に西区立高臺高等尋常小学校と改称。27年に校舎の増築をしたが大正7年に全校舎類焼のため焼失仮設校舎で授業新校舎の落成と大阪市高臺尋常高等小学校に改称、昭和3年になり学区が廃止され男子は日吉小学校へ、日吉小学校女子は高臺小学校へ収容、20年の大阪大空襲で焼失しその後日吉小学校に併合、20年3月13日夜の大空襲で校区内の多数の方が亡くなり、これらの方々の御霊、安らかに眠られんことを祈念いたしまして1988年8月15日高臺小学校同窓生有志で記念碑建立。

《参考「高台之頌碑」》542-0072大阪市中央区高津1-1-29 高津宮内

高台之頌碑(たかきやのしょうひ)と読み、仁徳天皇の詠まれた「民のかまど」を偲ぶ碑で、江戸時代の(1772)に建立されました。「高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民のかまどは賑いにけり」仁徳天皇が租税を免除して、国が富めるを御覧になって詠まれました。仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。

《参考1》北堀江、南堀江

http://www.city.osaka.lg.jp/nishi/page/0000001048.html#kitahorie

この地は難波村といわれていたが、元禄11年(1698)新地の開発を目的とした堀川の開削に伴い、難波堀江(「・・・上古の難波堀江にして今の大川也」【摂津名所図会大成】)を模して堀江の名を選んだのではないかという説がある。新たに開削した堀川を「堀江川」と名付け、堀江川の北側を北堀江、南側を南堀江というようになった。元禄15年(1702)には、現在の南堀江3丁目の高台橋(たかきやばし)公園付近に大坂角力の相撲場がつくられ、その対岸には堀江新地が発展し、いずれも賑わい、この両所をつなぐ橋は賑江橋と名付けられた。堀江川は昭和35年に埋め立てられた。

《参考2》「大阪堀江地区の歴史的変遷」文:早稲田大学・浦野ゼミナール(地域・都市論)岡﨑綾修

四辺環水にして舟運の便、廻船の利に恵まれた堀江新地は当然の結果として諸藩蔵屋敷が置かれ、また水運利便なることは諸国廻船問屋、北国問屋他、材木、新炭、藍、砂糖、銅吹、酒造等商工業の発展を促し、また橘通には仏壇、箪笥その他道具商が立ち並び、道具屋筋の異名をとり、出船千艘入船千艘の殷賑を誇り、大坂の繁栄と不可分の経済的地位を築いた。江戸廻船と北国廻船の発着地が堀江であったことからも、往事の繁栄がうかがえる。和光寺門前市として仏具屋と家具屋が集積した橘通は、後に「立花通」と漢字表記が改められるが、平成に到るまで★「家具の街」として脈々と継続することとなる。

《参考3》堀江の歴史

http://horie.ne.jp/

水都大阪と言われるだけあって、昔から大阪は河川や水路が発達し、輸送には道路より水路が利用されていたとか。もちろん道頓堀川も輸送の大きな役割を担っていた。川周辺には輸送に便利だということで、木材屋や家具店が自然に増えていったようだ。そして、 1960年代の高度経済成長期、家を建てる人が増え、家具を買う人のラッシュが続いたという。売上は大きく伸び、堀江は全国有数の家具店街として栄えていったという。


ほりえ2


《参考》「開運!出張なんでも鑑定団in関西大学」

2008年9月23日、同窓会主催の「開運!出張なんでも鑑定団in関西大学」は関西大学KUシンフォニーホールにてテレビ収録されました。直前に「タイトル」がテレビ局の意向により関大一高から関西大学に変更となったのは残念でしたが、「関西大学」をテレビを通じて世間に広めるお手伝いはできました。さて当日はオープンの3時間前から来場者が並び出す程の人気でした。同窓会役員は席に座らず後ろで立見をしていた程でありました。応募者96人・136品より選ばれた6人の出品者は一般見学者より先に到着し、別室にて控えていました。この方たちの出品物はいずれも格調高い品物ばかりで、さすが関大一高関係者です。一番手は一高先生の虎図(掛軸)は年代物でした。二番手の香炉(青磁)は素晴らしく高い値がつきました。三番の大壺は一中の入学祝いとの事。価格は残念な結果となりました。四番、鯉の図は難しく鑑定人も困っていたのが印象的でした。五番の大皿は寿司屋の方がすしを盛っていたのだそうです。六番手は★「婦人絵巻物」で大正時代の女性の働く姿が14mに描かれていました。依頼人の妻の父が文化人との交流があった事から手に入れたという。大正10年の作品で、当時としては珍しい職業婦人の姿が描かれた作品だという。鑑定額は300万円だった。出品者は田中会長と一高3年生の同級生でハッピ姿にて登場しました。また、鑑定士の中島清之助先生がハッピの2本線の由来を尋ねられ、出品者と田中会長の2名が再度壇上に上がり説明しました。収録後、関大内の博物館や応援団・吹奏楽部を廻り、大学紹介の資料とするようでした。

2008年11月5日「何でも鑑定団」での鑑定品が関西大学へ寄贈される

11月18日に放映されました、鑑定品/菅楯彦(大阪名誉市民第1号の画家、風俗画の第1人者)作『当世職業婦人絵巻』が、11月5日10時10分より関西大学理事会議室にて関係者の方々、立会いのもと寄贈されました。本作品は、先日の番組のなかで最高価格の評価された逸品です。大学からは心温かい感謝状が贈られました。今後は関西大学博物館に長く所蔵され、来春には一般披露も予定されています。寄贈式のなかで、大学の理事、そして橋本欣一氏(15期生)夫妻、上田さま(義姉)がお互いに「このすばらしい作品がこの寄贈を機会にすばらしい環境のなかで、保存されていき、たくさんの方々の目に触れることができ、とても喜ばしいです」と。


・・・「何でも鑑定団」で「菅楯彦」の作品が「関西大学」へ、見事な大阪尽くしです。


ほりえ3


2009年(平成21)4月1日~5月17日/関西大学博物館

企画展「浪速の絵師・菅楯彦の画業★職業婦人繒巻展」

http://www.kansai-u.ac.jp/past/mt/archives/2009/05/post_730.html

博物館が、関西大学第一高等学校同窓会創設60周年を記念して、昨秋テレビ放映された「出張! なんでも鑑定団 in 関西大学」で高い評価を得た菅楯彦画伯の名作「職業婦人繪巻」の寄贈を受けたことを記念し、企画展「浪速の絵師/菅楯彦の画業」を開催しています。


2011年(平成23)3月5日~27日/於:柿衞文庫(兵庫県伊丹市)

企画展「知と美の集大成―関西大学所蔵名品展」

http://www.kakimori.jp/2011/01/post_135.php

建学125年を迎える関西大学には、文化・芸術の名品が数多く所蔵されていますが、その名品の数々を在学生や卒業生はもちろん、より多くの人々にご覧いただきたいという関西大学校友会伊丹支部のご要望をうけ、社会貢献事業として同大学の多大なご協力を得て、当文庫において公開いたします。


ほりえ4


《中之島図書館所蔵の絵画について》文:鳴澤成泰

小説家の表紙絵や口絵なども書いているが、昭和26 年の毎日新聞のコラムに次のような記載がある。「画伯が戦時中郷里鳥取県に疎開していたとき、当時岡山県勝山に疎開中だった★谷崎潤一郎氏が「細雪」の装幀依頼のためはるばる山をこえて訪れ、画伯はすぐさま玄関先であの有名な表紙の絵と「細雪」の字を書いたという挿話がある。谷崎氏の画伯に対する敬慕はすでにふかい。「聞書抄」をはじめ多くの挿絵をえがいたことにもよるが単に作品と挿絵画の関係だけでなく谷崎氏を傾倒させる偉大さが菅画伯にはあるのである。」菅楯彦は文芸懇話会発足時からの世話人であり、昭和27 年5月天王寺分館が竣工し、6月に開館式を迎えたとき、招待状の文及び字を書いていただいたなど、図書館との縁故も深いものがある。死後多くの蔵書を受け入れている。幕末の大阪の姿を彷彿させる貴重な歴史・風俗資料である浪速百景も菅楯彦の旧蔵品である。次の6点を所蔵している。


ほりえ5


2009年(平成21)11 月28 日~12 月4日/於:大阪府立中之島図書館

平成21年度「所蔵絵画展・関連講演会」

https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/event/suga_2009.html

H21年度夏に株式会社★新歌舞伎座より、菅楯彦画「道楽(一名:鼗鼓楽)」が寄贈された。寄贈を受け、菅楯彦並びにその弟子である生田花朝の作品を展示、最終日に芦屋市立美術博物館学芸課長・明尾圭造氏による「菅楯彦と生田花朝の世界」と題した講演会を開催しました。今回、公開用の調査資料をまとめ、中之島図書館所蔵の絵画の紹介をしました。「道楽」は、1958 年10 月に開場した新歌舞伎座へのお祝い用として制作された襖絵で、2枚の絵画から成る。今回寄贈された資料は、2枚の内の右側の作品で、左側の部分(一鼓の演奏部分)を欠いているため落款を欠くが、その来歴、画風と共に右端(雞婁鼓の演奏部分)の関防印(天高地厚方印4.6×2.5cm)からも菅楯彦の作品である事が知れる。天王寺雅亮会の一員であった楯彦には舞楽を描いた作品が多いが、本作もその一つ。「道楽」は、雅楽の演奏形式の一つで、行幸・大葬・神幸の時などに使われる。楽器編成は笙・篳篥・笛・一鼓・荷太鼓荷鉦鼓で、歩きながら奏でられる。今回の寄贈を受け、当館所蔵の菅楯彦の作品は7点となった。