菅楯彦(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ずいぶん滞っていた「絵師画人伝」、阿倍野図書館セミナーで「菅楯彦」さんのことを教えていただき、さらに調べていきたいと思います。


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NEWS》2014.3.1産経WESTより

自在な線で風俗描く大阪の日本画家「菅楯彦展」★生まれ故郷・鳥取の博物館で開催

平成26年2月22日(土)~4月6日(日)於★鳥取県立博物館

http://site5.tori-info.co.jp/~museum/

鳥取市生まれで、近代の大阪を代表する日本画家、菅楯彦(1878~1963)の没後50年にちなみ「菅楯彦展 浪速の粋 雅人のこころ」が鳥取県立博物館(同市東町)で開催中だ。初期から晩年までの約200点を網羅、画業を紹介する過去最大の展覧会となっている。菅楯彦は幼時、画家の父ら家族と鳥取県から大阪に移った。絵は最初父に手ほどきを受けたが、11歳のころ父が病に倒れ、以来、独学した。自在な線描の独自表現で声望を得て作品は広く愛されたが、美術団体などには無縁で、現在も美術史上の評価が十分になされていない作家とされる。同展では菅楯彦の足跡を再検証。船上の管弦の遊びを描いた「龍頭鷁首図屏風」(四天王寺蔵)は、国学、漢学などを修め、自ら舞楽も実践した学問の人としての本質を浮かび上がらせる。古き良き浪速の風俗を劇的な墨の濃淡に表した「春宵宜行」(★倉吉博物館蔵)は、地域の文化に尽くした楯彦の画技の極みを示している。


すがた2


【倉吉博物館・倉吉歴史民俗資料館】1974年5月24日開館

682-0824鳥取県倉吉市仲ノ町3445-8/0858-22-4409

http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/

打吹公園内にある博物館は現代建築の粋を集めて設計されたものです。「倉吉博物館」には前田寛治★菅楯彦などの郷土ゆかりの作品、郷土の歴史・考古民俗資料などが展示されています。また「歴史民俗資料館」には倉吉絣や農機具など、明治から大正時代の民俗資料が展示されています。

●美術所蔵品展「菅楯彦とその周辺(盛南・美記子・真人)」

2014.2.6 ~ 2014.3.16

平成25年は菅楯彦の没後50年。日本画で倉吉名誉市民の菅楯彦の作品にあわせて、父★盛南、甥★真人、妻★美記子の作品も展示しました。

◆倉吉博物館は、2015年9月より耐震補強工事及び外壁・屋根改修のため休館しておりましたが、2016年★3月17日(木)より第39回倉吉市創作文華展に合わせて開館します。

《参考》「菅楯彦大賞」

倉吉博物館では開館以来、大正期から昭和前期にかけて独自の様式で歴史風俗画を追究し、★日本芸術院恩賜賞を得た菅楯彦の展示及び研究活動を行ってきた。昭和63 年に創設した★「菅楯彦大賞」は「倉吉:緑の彫刻賞」「前田寛治大賞」とともに倉吉市が開催してきた美術賞の一つである。この「菅楯彦大賞」は、浪速風俗画をライフワークとした菅楯彦の顕彰を目的とし、現代における暮らしの情景をテーマに設定している。


すがた3


【大阪博物場長「田村太兵衛」】(18501922

http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000062445.html

大阪・心斎橋に丸亀屋呉服店を開き、1889年(明治22)に市会議員、1891年(明治24)に大阪商業会議所副会頭となった。当時、東京市・大阪市・京都市には市長が置かれず、府知事が市長の職務を代行する市制特例があったが、1898年(明治31)に市制特例は廃止され、「市会推薦市長」が置かれることになった。田村太兵衛は丸亀屋を★「たかしまや飯田新七呉服店」に売却し、★住友吉左衛門を抑えて「初代大阪市長」に就任した。在任中に市庁舎の建設、上下水道の拡張、大阪高等商業学校の創設を行った。

http://minato-q.jp/blog/?cat=44

《参考》ふれあい情報サイト・みなとQ「わが町人物誌」

情報誌(フリーペーパー)「みなとQ」をベースに、女性の視点で捉えた大阪ベイエリア(港区・西区・大正区)の身近でホットな地域密着情報を配信。執筆者は2001年に大阪市文化功労賞を受賞した郷土史研究家「三善貞司」先生。1988年の連載開始から長年にわたり読者を魅了し続ける大人気ロングラン連載です。

http://minato-q.jp/blog/?p=3680

1901年(明治34)8月、任期半ばで辞職した初代大阪市長・田村太兵衛は、その後「大阪博物場」の場長に就任しました。同場(中央区備後町3丁目)は「西町奉行所」の跡地に設立された大阪唯一の、美術・工芸を収集・陳列・公開した博物館です。江戸時代、大坂の司法・行政のすべては、東・西両奉行が支配しますが、明治維新後奉行所は大阪裁判所になり、1874年(明治7)江之子島(西区江之子島2丁目)に移って、しばらく空地になっていました。そのころは美術・工芸品といえば、豪商たちが秘蔵していて、たまに知人らを集めて酒宴を開き、長々と講釈してからみせびらかして得意がるのが常でした。太兵衛は、「かくすもんやない。いつでも誰でも自由に見られるようにせなあかん」と主張し、八方奔走して頭を下げて寄託を乞い、書画・陶芸・染織服飾・金石に動植物標本など、よだれの出そうな文化遺産を集め、「さあ、気楽におこしやす」と門戸を開きました。ですから大阪博物場は、図書館・博物館・美術館・資料館を兼ねた文化・文明の大サロンとなります。太兵衛は、あるとき、いつも博物場のあたりをうろついている★菅藤太郎というまだ16歳の超貧乏画学生に、声をかけます。「な、あんちゃん。絵描くには勉強せんとあかん。いつでもお入り。料金タダにしたるさかい・・・」大喜びの藤太郎は、それから昼夜の別なく入りびたりになって勉学しますが、この少年がのちのあの有名な画人★菅楯彦です。こうして培われた書画・骨董の鑑識眼はたいしたもので、彼が書いた鑑定書は「太兵衛はんのお墨つき」と呼ばれて、好事家(風流を好む人)どころか、プロの美術商たちの間でも評判になります。茶人としても知られ、またカメラを好み、当時珍しかったカメラマンとしても一流です。墓所は大阪市中央区中寺の★雲雷寺にある。

《雲雷寺》 http://unraiji.or.jp/

542-0065大阪市中央区中寺1-4-406-6761-2484


すがた4


・・・これまで調べてきた「府立博物場」と「菅楯彦」さんとが結びついていることを知り、うれしくなってきました。


すがた5


1894年(明治27)16歳の少年菅藤太郎は★「舜帝盲父孝養図」を描き、プロでも入選の難しい日本美術家協会展に応募、なんと協会賞を受賞・1円50銭でお買い上げとなります。「こんな大金、見たことない」藤太郎は目を丸くして、そっくり母に差しだしました。

《参考》『孝子伝』

「舜子(シュンシ)盲父(モウフ)を養いて涕泣(テイキュウ)すれば両眼(リョウガン)を開く」

その昔、舜(シュン)という青年がいました。姓は姚(ヨウ)、字(アザナ)は重華(チョウカ)です。母親と別れ、父の瞽叟(コソウ)は後妻を迎え、象(ショウ)という男の子をもうけました。舜は親孝行でしたが、新しい母親は象ばかりをかわいがり、瞽叟へ讒言(ザンゲン…おとしいれようとして嘘の情報を吹きこむこと)して舜を殺そうと企みました。舜は倉庫の屋根葺きを命じられた時に企みを察知し、笠を二つ手にして屋根へ登りました。案の定、下から火の手が上がりましたが、舜は二つの笠を利用して飛び降り、無事でした。今度は、父親に井戸掘りを命じられました。夫婦の悪心に気づいた隣人は逃げなさいと勧めます。舜は平然として答えます。「私はただ、父母の言うとおりにし、死んで孝行をするまでです。逃げて親不孝をするつもりはありません」隣人は深く感銘を受け、舜へ銀銭五百文を与えました。翌朝、井戸を掘った舜は土から銀銭を掘り出したように見せかけます。思わぬ僥倖(ギョウコウ…天から降ったような慶事)に両親が喜んでいる隙を見て、隣家の井戸へ坑を掘りつなぎ、歴山(レキザン)の麓まで逃げのび、百姓を始め、とうとう、毎年三百石もの成果をあげるように富農となりました。悪行の報いにより、やがて父親は視力を失い、母親は聴覚を失い、罪のない弟までが会話を失い、しかも、雷によって家は焼失しました。ある時、舜は、母親が細々と薪を売りながら極貧に耐えていると知って食物を与え、薪を高く買い上げ、その銭を米袋へ入れてやりました。それが度重なるうちに、父親は、もしかして舜がそうしてくれているのではないかと気づき、妻に手を引かれながら町へでかけ、名乗り上げました。そこで父子は泣きながら抱き合い、家族の姿を見た舜の悲しみは天地を満たすほどでした。町の人々も皆、悲嘆の涙にくれました。そして、舜が父親の眼に手を当て、天を仰いで悲しんだ時、不思議にも両眼が開きました。また、母親の耳は聞こえるようになり、弟も言葉を話せるようになりました。この孝行ぶりは国中へ聞こえ渡り、堯帝はその聡明さにかけて天子の位を譲りました。舜帝の徳による治世は82年の長きにわたりました。


・・・菅楯彦さんの幼少期の苦労と重なるテーマなのでしょう。