【近松門左衛門「女殺油地獄」】
世話物。三段。1721年(享保6)に人形浄瑠璃で初演。人気の近松作品と言うことで歌舞伎でも上演されたが、当時の評判は芳しくなく、上演が途絶えていた。ちなみに、実在の事件を翻案したというのが定説だが、その事件自体の全容は未詳である。明治になってから坪内逍遙の「近松研究会」で取り上げられ、1909年(明治42)に歌舞伎で再演され大絶賛された。文楽(人形浄瑠璃)での復活はそれから更に年月を経た1947年(昭和27)であった。
「女殺油地獄」の女主人公・油屋お吉、「野崎参り」の道行く女達の派手な姿を見ながら、あれこれと品定めをするなど、往来の賑わいと参詣者の浮き浮きした様子がうかがえます。舟は多くの場合乗り合いでしたが、なかには一艘借り切って幕を美しく張りめぐらし、酒肴に鳴物入りという派手なものもみられたようです。
【近松半二「新版歌祭文」】
先行作品に1710年(宝永7)4月『お染久松袂の白しぼり(紀海音・作)』1767年(明和4)12月『染模様妹背門松(菅専助・作)』などがあるので「新版」と呼び、また「歌祭文」の縁語にもなっています。先行作品には★「野崎村の段」にあたる部分は無く、近松半二の独創です。世話物2巻、上の巻「座摩社の段」「野崎村の段」下の巻「長町の段」「油屋の段」「蔵場の段」。1780年(安永9)大坂「竹本座」初演。お染と久松との情死事件を脚色したもの。
《近松半二》(1725~1783)
★2世竹田出雲に師事して宝暦1年(1751)「竹本座」に入り、近松姓を名のった。
《2世竹田出雲》(1691~1756)
通称を「親方出雲」と呼ばれる。初代の実子で名は清定。のちに浄瑠璃作者の名として竹田外記とも称した。延享4年、父出雲の死去により初代竹田小出雲から二代目出雲を襲名し★竹本座の座元となる。墓所は★青蓮寺(大阪市天王寺区生玉寺町3-19)。境内に竹田一族の墓(一段高い台座の上にある)。墓は元:生国魂神社の神宮寺であった「法案寺」の塔頭遍照院にあったが、遍照院と医王院が併合し青蓮寺として、現在地に移転したのに伴い、墓も移転された。
・・・「お染久松」の墓が、私の地元にあります。
【野中寺】
583-0871羽曳野市野々上5-9-24/072-953-2248
野中寺は、★聖徳太子が建立した46寺院のひとつで、太子の命により蘇我馬子が造ったと伝えられ、南河内郡太子町の叡福寺(を「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺を「下の太子」と呼ぶのに対し、野中寺は「中の太子」と呼ばれています。本寺は丹比郡野中郷を本拠としていた渡来系氏族の船氏の氏寺ではないかと言われています。丹比道(後の竹内街道)沿いに南大門を構え、七堂伽藍(金堂・講堂・塔・食堂・鐘楼・経蔵・僧房)を備えた大寺院でしたが、南北朝時代の戦火によって焼失しましたが、江戸時代に山城国の僧・覚英が律宗の戒律道場として再興し、丹南藩主の高木氏や狭山藩主の北条氏、大和郡山藩主柳沢氏の帰依をうけて、本道・薬師寺・経堂・鐘楼・地蔵堂・僧房などが建立されました。また、大和郡山藩主柳沢吉里が寄進した別邸を移築して客殿・仏間・食堂とし、方丈(寺院の長老の居所)や勧学院(僧侶講学の機関)として使用されました。境内には三重の塔や金堂跡など飛鳥時代の伽藍の一部が残されていて、国の史跡に指定されています。
http://www.osaka-museum.com/spot/search/index.html?ky=%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%AF%BA&vi=20&m=d&id=517
寺宝には金銅弥勒菩薩半跏像(国指定重要文化財)、鎌倉時代の地蔵菩薩立像(同)などがあり、境内にはサザンカ(府指定天然記念物)や★「お染久松の墓」もあります。お染の父親の菩提寺が野中寺であった関係だそうです。境内には樹齢四百数十年の山茶花が植わっており、初冬、鈴なりに白い花を咲かせる様は圧巻。豪商であった父親の里、八尾の地から移植したものだということです。「縁結び」の山茶花と呼ばれているらしい。古色蒼然とした墓碑の表面には、「宗味信武士 妙法信女」裏面には「享保七年十月七日 俗名 お染 久松 大坂東掘 天王寺屋権右衛門」と刻まれている。
・・・羽曳野市は、古代のロマンあふれる町でもあります。