・・・「来ぶらり四条」、小学校跡ということですが、本当に美しくリニューアルされています。しかも、無料なのが最高です。
・・・そして、やっぱり「野崎観音]さんへ。
【慈眼寺「野崎観音」】
574-0015大東市野崎2-7-1/072-876-2324
http://www.nozakikannon.or.jp/
野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749~757)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、1616年(元和2)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。
野崎観音は、★お染久松を主題にした近松半二「新版歌祭文」をはじめ、★近松門左衛門「女殺油地獄」、落語「のざき詣り」、東海林太郎「野崎小唄」などで広く知られております。 お染久松の物語は、野崎会館内に絵物語がございます。
《野崎小唄》作詞:今中楓渓/作曲:大村能章/唄:東海林太郎
野崎参りは 屋形船でまいろどこを向いても 菜の花ざかり粋な日傘にゃ 蝶々もとまる呼んで見ようか 土手の人 野崎参りは 屋形船 でまいろお染久松 切ない恋に残る紅梅 久作屋敷今も降らすか 春の雨 野崎参りは・・・
1935年(昭和10)東海林太郎が歌った「野崎小唄」は、地元有志がPRのために制作したが 思いがけない大ヒットとなり、この歌で 全国で野崎参りを知らぬ人はいないほどになったという。「野崎参り」は江戸時代の元禄年間(1688~1704)から盛んになった。毎年5月1日から8日まで行われる「無縁経法要」に参詣して、有縁無縁すべてのものに感謝のお経を捧げる。期間中は全国各地から参詣者が集まり、参道には300軒もの露店が並びとても賑わう。大阪からの野崎参りは船路と陸路があった。船路は大阪・天満★八軒屋浜から大川・寝屋川・谷田川を経て観音浜に着く屋形船で行く人は、川岸の景色を眺め川遊びをしながら船の旅を楽しんだ。川の土手を歩いて「野崎観音」に向かう人たちと船の人たちが、お互いに悪口を言い合う「ふり売り喧嘩」と言う風習があり、面白おかしく伝えられ落語「野崎詣り」の題材にもなっている。
《上方落語「野崎詣り」》
原話は、1720年(享保5)に出版された笑話本『軽口福ゑくぼ』の一編「喧嘩はどうじゃ」(男が、田舎侍に橋の上で因縁をつけられたので、「山椒は小粒でもヒリヒリ辛い」と見得を切ろうとするが、「山椒は」で言葉に詰まってしまう。それを見た往来の人が「小粒だ」と助けると、田舎侍が刀を投げ捨てて這いつくばり、その「小粒」を探し始めるというもの。「小粒」は豆板銀の通称でもある)。北河内の寺院・慈眼寺(野崎観音)の同名の行事および、その参拝客の間に伝わる風習を題材にした噺。代々の★桂春團治のお家芸として知られる。なお、代々の春團治が用いる出囃子は同演目の舞台にちなむ『野崎』(★人形浄瑠璃および歌舞伎の『新版歌祭文』のうち「野崎村」の段より)である。
《歌舞伎「心中鬼門角」》
1710年(宝永7)2月、大坂荻野八重桐座初演。中田猪同(中田嘉右衛門)作。お染久松の心中事件後即座に脚色されました。題名は油屋が鬼門の角屋敷であったことによっています。お染の婚礼がすでに整いつつある状況や、お染が久松の子を身籠っていること、蔵の前でのお染の自害、蔵の中での久松の縊死(首つり死)など、後の「お染久松」物に受け継がれる設定、構成を持っています。世間知らずの大店の秘蔵娘、無邪気であるがゆえの奔放な恋情、町娘お染が鮮やかに描かれ、お染を演じた八重桐も「おそめの大当」と好評を得ました。久松の叔父権左衛門の意見事も好評で、後の作品に取り入れられていきます。
・・・「お染久松の塚」を見に行きましょう。