《相対死》
社会問題へと発展した「心中」は、幕府側から厳しい取締りが行われた。江戸幕府は「心中は漢字の[忠]に通じる」としてこの言葉の使用を禁止し、「相対死」(あいたいじに)と呼んだ。心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした。1722年(享保7年)には心中物の上演を禁止した。寛政の改革(1787~1793)の際には山東京伝などの好色物を書いた作家が処罰され、関連する出版物は焚書された。
『曽根崎心中』が上演された翌年、京都では★『心中大鑑』という近畿圏で起こった心中をまとめた書物が刊行されています。そのなかでお初と徳兵衛の心中も「曽根崎の曙」というタイトルで紹介されており、曽根崎の森で心中したと記されています。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc13/jidai/sewajoruri/p1.html
http://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei/cgi-bin/gazo.cgi?no=210&top=1
・・・心中した人のお墓は、もとより存在しないようですが、八尾「大通寺」に供養碑(供養墓)が建てられているというので行ってきました。
【大通寺】
581-0874八尾市教興寺7丁目110/072-941-6648
http://bunka.city.yao.osaka.jp/detail/index?cultural_id=63
お初は八尾の教興寺村の出身(巽出身説も)という昔からの言い伝えがあるそうです。また、曽根崎心中のストーリーとは異なり、お初は堂島新地での年季が明けた後、大通寺に程近い融通念仏宗の教興寺住職であった浄厳のはからいで、恋仲となった徳兵衛と晴れて夫婦になったものの、程なくして徳兵衛が病死。お初は後追いして自決したという逸話が、この地では残っているそうです。大通寺境内にあるお初・徳兵衛の墓碑も、そんな二人を哀れんだ浄厳による建立とのこと。ちなみに、近松門左衛門が『曽根崎心中』の脚本をしたためたきっかけも、浄厳から聞いたお初と徳兵衛の悲話を、人形浄瑠璃向けに脚色したとの言い伝えが残っているようです。
・・・近くの「教興寺」には、近松の墓があったという。
【教興寺】
581-0874八尾市教興寺7-21/072-941-7261
http://bunka.city.yao.osaka.jp/detail/index?cultural_id=57
獅子吼山大慈三昧院教興寺と称し、一名高安寺ともいい、俗には藪寺の名で知られる。真言律宗西大寺末で、古く秦寺といわれ、聖徳太子が★物部守屋を討った時、秦河勝に建立させたものと伝えられ、俗に薮寺ともいわれている。境内の南方に寺池、大門池という池が今もあって、昔はいわゆる臨池式伽藍の形式を持った大寺院であった。★大通寺、梅岩寺、意満寺などはその塔頭であったという。鎌倉時代に西大寺の叡尊が、南河内方面に布教の帰途、信貴坂から見えた余りに荒れ果てた当寺を見てこれを尋ね、由緒ある寺院であることを聞いて発願し、各地に浄財を募ってこの寺を復興した。そしてここに仏舎利を納め、また蒙古降伏の大祈祷を行った。足利直義が諸国に安国寺や利生塔を設けたが、中河内の国の利生塔は、当寺に設けられたといわれる。しかし永禄5年(1562)ここに陣取った河内国の守護畠山高政は、三好義興と松永久秀の軍勢と、いわゆる「教興寺合戦」となり、あえなく敗れて退き、教興寺は焼かれてしまった。江戸時代になって、延宝7年(1679)に覚彦浄厳和尚が当寺に入り、これを再興した。浄厳は錦部郡鬼住村の人で、高野山で真言律をきわめ、梵語を研究した学者で、五代将軍綱吉やその側用人柳沢吉保の信仰を得て、江戸に行き、瑞雲寺や霊雲寺を建立し、元禄10年(1697)には、高弟蓮体和尚に教興寺を譲って江戸に移り住んだ。有名な僧契沖も鬼住の延命寺で浄厳和尚に灌頂をうけ、悉曇の教えを受けた一人である。また、★近松門左衛門も当寺に住み、その墓もあったといわれている。しかし明治18年の大暴風雨のため、本堂は崩壊したので、客殿を仮本堂として今に至っている。
《湯川直光公勇戦の地碑》
戦国時代の永禄3年(1560)、三好長慶は河内を制圧し、飯盛城へ入城した。これに対して、河内の畠山高政らは、永禄5年、飯盛城を攻めたが、松永久秀らに押されて、五月二十日、教興寺表で合戦となった。この時、畠山方として戦っていた湯川宮内少輔直光が戦死した。湯川直光の本城は和歌山県御坊市にあるが、昭和63年5月同地の人々が、湯川直光の奮戦を記念して、教興寺境内にこの石碑を建てた。
【国指定史跡・近松門左衛門墓】542-0012大阪市中央区谷町8‐1
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009674.html
近松門左衛門は、享保九年(1724)に72歳で没した、近世で最も著名な劇作家の一人である。近松は、竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を著している。『曽根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などの世話物に代表される作品に人間の姿は今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を与え続けている。近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在★大東市へ移転)境内にあったが、昭和55年(1980)財団法人★住吉名勝保存会をはじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、整備が図られた。平成7年10月28日/大阪市教育委員会
・・・大東市にも行ってみましょう。
【法妙寺】
574-0014大東市寺川4-8-1/072-874-6659