・・・前回「楠大明神」と書きましたが、「楠木大明神」が正しいようです。
《蛇とタタリが「クスノキ」を残す》
http://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000004396.html
谷町七丁目交差点を東に入ると、道路のど真ん中に木立が茂っている。茂みの中に注連縄が張られた枯れた切り株がある。この枯れた切り株を神木として、地元では「谷町のクスノキさん」、「楠玉社ですたまし母」などと呼ばれ、祀られている。神木はもともと、この場所にあった「クスノキ寺」とも呼ばれていた本照寺の境内に植えられていた。★1937年(昭和12)の道路拡張工事の際「本照寺」は移転したが、クスノキには繁栄をもたらす蛇、巳いさんが棲んでいるので「伐るとタタリが起こる」と畏れられたことから、道の真ん中にその姿を残すことになった。残念ながらクスノキは数十年前に枯れてしまったが、今でも信仰の対象として大切にされている。また、木立のある道筋は「楠木筋」と名づけられ、地域のシンボルとなっている。
※本照寺の移転時期について★[1937年(昭和12)]とありますが、★[1968年(昭和43)]と書かれている資料もありましたので、また後で詳しく調べるとして、さてこの「楠木大明神」の近くにあるのが「近松門左衛門」の墓です。
・・・現在「案内板」の文字はほとんど見えない状態です。仕方がないので、以前の画像を掲載しておきます。
【近松門左衛門の墓】
542-0012大阪市中央区谷町8-1-49(株)吉田石油/06-6763-0201
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009674.html
吉田石油の横(北側)、法妙寺跡に残された墓所で有る。法妙寺は、近松の妻の生家の菩提寺だったとされる。(楠木大明神として祀られている楠は、旧法妙寺の北隣に有った旧本照寺境内の北側の一部が道路拡張工事で削られて楠だけが保存されたもので有る。)法妙寺は、谷町筋拡張のため移転を余儀なくされ大東市に移転、「近松門左衛門」の墓だけがこの地に残った。
《参考》広済寺(兵庫・尼崎)と法妙寺(大阪・谷町)の二つの墓碑について
http://www.kosaiji.org/chikamatsu/text/2tomb.htm
・・・どちらが本当なのか、いろいろ説もあるようですね。
《本覺山「法妙寺」》
574-0014大東市寺川4-8-1/072-874-6659
近松寺とも通称し、寺伝によると1562年(永禄5)の創建と伝わる寺院で、元は大阪城東辺にあったが、大阪夏・冬の陣後の松平下総守忠明による復興整理のため、谷町筋8丁目寺町(現:中央区谷町8丁目)に移転させられ、1967年(昭和42)谷町筋の拡張のため、現在地に移転する。谷町に在った法妙寺は近松門左衛門の妻の実家が檀家だった関係で、近松門左衛門の墓が建てられていた。移転に際して、この墓も移転すれば、国史跡の指定が解除になるので、大阪市の要請もあり移転で出来なかったが、その他の近松の一族の墓や過去帳などは現在地に移転した。過去帳などは非公開であるが、数年前に大学の先生が研究のためにと要請があり、開示したことはあるとのことである。近松門左衛門の墓は移転できなかったが、谷町にある墓と同じような墓石を建て供養墓としている。
・・・また、訪問するところが増えてしまいました。(うれしい悲鳴)
《参考》寶泉寺
542-0065大阪市中央区中寺1-1-40/06-6762-0178
http://www.kosaiji.org/kosaiji/border.htm
谷町の法妙寺跡前の谷町筋の、丁度西側を通る中寺通りに西面して寶泉寺と言う寺が有る。その寶泉寺の五世日昌が1714(正徳4)年に創立した尼崎★廣済寺にも墓碑が建っている。廣済寺は、ひょっとしたら近松が別荘的に利用して文筆活動をしていた場所かも知れない。
《NEWS》2010.8.14大阪日日新聞より
「なにわ人物伝-光彩を放つ-門左と相棒たち(23)」文:三善貞司
頭下がる門左衛門らの功績/神社や記念碑建立
近松門左衛門が死亡する十数日前に書いた賛(さん)の大意を、口語訳しておく。
「自分は浪人した父の子でありながら、三槐九卿(さんかいきゅうけい)(朝廷の高官)にお仕えし、咫尺(しせき)(身分のある方の側)で過ごした。にもかかわらず、知ったかぶりをして芝居の脚本ばかり書き散らした生涯は、恥の多い情けないものであった。死ぬまぎわに残したい言葉は、何一つない」
武家出身で若いころ一条恵観(後水尾天皇の弟、公卿)に仕えた誇りと、社会的地位の低かった脚本作家に甘んじた自虐的心理が、苦しい病床から座り直し、衣冠束帯の姿になってその姿を描かせ、上部にこのような賛を書いた無念さが、痛切にあふれている。門左衛門の臨終地は船問屋尼崎屋吉右衛門方、鋳物師山城屋宗左衛門方、書店風月堂、檀那寺広済寺の4説があり確定できないが、墓碑は次の3カ所が広く知られる。(1)広済寺(兵庫県尼崎市久々知1丁目)(2)法妙寺跡(大阪市中央区谷町8丁目)(3)法妙寺(大阪府大東市寺川4丁目)。法妙寺は門左衛門の妻女の実家「松屋」の菩提寺。戦後大東市に移転するが、墓は文化財で移動できず、狭い路地に墓のみ残している。(3)は同型のものを移転後建立。すべて夫妻の戒名を併記しているので、妻が死亡した享保19(1734)年2月以後の建墓。門左衛門と竹本義太夫は神様になった。生国魂神社(大阪市天王寺区生玉町)の境内にある「浄瑠璃神社」がそれだ。明治9(1876)年、竹本春太夫、鶴沢清七らの建立で、祭神は華柵佐倶羅井神(竹本義太夫)、瑞垣能久為蘇神(近松門左衛門)、三緒妙音翁神(豊沢団平)の三柱。この時代の芸能人の社会的地位は低く、記念碑でさえ容易ではなかった。それだけに多くの困難を乗り越えた人たちの心意気と、門左衛門・義太夫らの功績に、あらためて頭を下げたい。このほか大阪市内から、二つのモニュメントを挙げておく。(1)平安堂近松巣林子信盛碑-松乃木神社(西区太子町)にある。難波新地(中央区)で「玉屋」という茶屋を経営していた室上小三郎の建。熱烈な門左衛門ファンで知られる。(2)近松門左衛門碑-国立文楽劇場(中央区日本橋1丁目)付近。大阪府の建。「心中重井筒」の「芝居づくし」と呼ばれる道行文の一節が刻まれる。このほか門左衛門の作品に因むいくつかの文学遺跡があるが、詳細は拙著『大阪史蹟辞典』(1986清文堂出版刊)を参照いただきたい。また門左衛門で町おこしに取り組んでいる尼崎市にも、多くの遺跡があるが、紙面の都合で省略する。いずれにしても近松ゆかりの散歩は楽しい。お勧めしたい。門左衛門亡きあとの竹本座は、竹田出雲と二代義太夫が懸命に支えた。二代義太夫は声量と節回しで初代に劣ったが、「浄瑠璃は心で語る」が信念で、多彩な人物の感情を巧みに表現し、クライマックスでは大粒の涙をポロポロこぼしながら熱演した。『音曲口伝』と題した秘伝書も残し、延享元(1744)年5月52歳で他界する。墓は天瑞寺(天王寺区夕陽丘町)にあり、8霊の戒名が併記された合同墓。そのなかの「乾外孤雲居士」が彼。出雲は前記したように竹本座の座元(経営者)だったばかりか、初代・二代義太夫に存分に腕を振るわせ、竹田芝居伝統のからくりも取り入れ、座の発展に貢献した。門左衛門の死後は脚本も執筆、「仮名手本忠臣蔵」「ひらかな盛衰記」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「小野道風青柳蛙」などの有名な作品を、二代義太夫に語らせている。宝暦6(1756)年11月65歳没。墓は青蓮寺(天王寺区生玉寺町)にある。