⑦「大阪市中央公会堂」
530-0005大阪市北区中之島1-1-27/06-6208-2002
加島銀行の設立、日本女子大学創設などを経て、浅子さんへの執筆や講演の依頼が多くなりました。公会堂での講演内容は、◎成功の秘訣は、活力である。その人のどのくらい活力があるか。成功者は人の何倍も活力を持っている。◎真我と小我=大局を忘れがち、普遍的審理がある。これが真我。真我をめざすとき行き詰まりはなくなる。そして、1902年(明治35)公会堂でおこなわれた講演会の帰り道に「万屋の襲撃事件」が起こりました。加島屋と同じく両替商で近くで店を出していた万屋は、明治維新の変革に対応できずに倒産していました。その万屋は加島銀行の浅子を訪ね、再起するための資金の融資を願い出ます。ところが万屋の事業計画自体が非常にずさんなものだったので、浅子さんはこれを却下して万屋に融資をおこないませんでした。この件で万屋は浅子を恨み、ナイフで脇腹を刺したのです。浅子さんは出血多量で生死の境を彷徨います。損傷の大きかった腸をほとんど切り取るなどの大手術の末、何とか一命は取留めすますが、予断を許さない状況が一週間も続いたようです。(原作本「土佐堀川」より)
・・・史実とは異なるかもしれませんが、そのようなことが大きなきっかけとなり、生命保険会社の設立に積極的に取り組んだものと思われます。
【NEWS】2015.11.17山陽学園公式ブログより
「あさが来た」の広岡浅子さんが、105年前の山陽学園で講演されていました
★学校法人山陽学園「山陽女子中学校・高等学校」
703-8275岡山県岡山市中区門田屋敷2-2-16/086-272-1181
http://www.sanyojoshi.ed.jp/index.php
山陽高等女学校とは、山陽女子中学校・高等学校の前身の学校です。明治43(1910)年5月、広岡浅子さんは山陽高等女学校を訪れ、講演されていることが、当時の校誌「みさを」に記録されていました。テーマは、「向上」。「私たちの小さいときには学校がなかったものですから、よい学問も受けたものではございません。」「私の若年にあっては、(女性の)読む書物を挙げますれば、百人一首の歌、女大学即ち貝原益軒先生の教の書などで、他は如何にしても学ぶことができません。」などと、女性が学ぶことを制限されていた時代のようすを顧み、「皆様も益々奮闘して、立派な婦人となる様に勤めなければなりません。」と励ましの言葉を送ってくださっていました。
浅子さんは、前年の明治42(1909)年、胸に腫瘍が見つかって手術を受けています。病気に負けず、精力的な活動を続けていたことの表れの一つです。校誌『山陽高等女學校行餘會會報みさを』(第45号、同年7月)には、浅子の地方講演としては非常に珍しく、記録が残っていたのです。浅子は、女学生たちに女子の高等教育の必要性を説いて、勉学に励むよう、促したことがわかる、といいます。報道によれば、浅子の講演が催された経緯はわかりませんが、成瀬仁蔵を介した可能性も、指摘されています。山陽高等女学校の当時の校長・上代淑は、★梅花女学校の卒業生であり、成績優秀であったため、母校の教師をしていました。その母校・梅花女学校の教員をつとめていたのが、★成瀬仁蔵でした。岡山基督教会からの要請を受け、上代淑は山陽高等女学校に赴任しました。山陽高等女学校の創立には、上代淑の父・知新とともに、成瀬仁蔵も関わっていた、といいます。
★1919年(大正8)1月14日、東京にて死去。享年70歳。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかった。葬儀は1月21日に東京★神田青年会館で、1月23日に大阪市西区★土佐堀青年会館で行われた。
★日本女子大学では、同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。同大の同窓会機関紙「家庭週報」(第524号)に当日の詳報が載っている。浅子とともに評議員をつとめた大隈重信が追悼を述べた。「天性偉大な廣岡夫人」と題する長文で、「男子も及ばぬ多大な力を発揮した。その精神と人格は永久に生きていくことを信じる」としている。浅子の逝去を報じた新聞各紙に「男優りの女傑」「女傑伝中の第一人者」という見出しが躍っている。
⑧「大阪金相場会所跡」/大阪市中央区北浜1-8大阪取引所前
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009620.html
江戸時代の貨幣制度は、大別すると計数制と秤量制であった。金は両(りょう)、銭は貫(かん)、銀は秤ではかる匁(もんめ)など複雑な面があった。その上、関西は銭、関東は金と流通範囲が自然に分かれていた。そして相互の交換は法定されてはいたもののあまり信用されず、実際には相場が立てられそれが標準になった。そのため金相場の会所は存在価値が高かった。会所は最初高麗橋付近にあったが、のち現地に移り(寛保3年、 1743)、維新後、銀目取引廃止にともない閉鎖された。
【銘版】近世、大坂はもとより全国の標準とされた金銭相場の立会いは寛保3年(1743)以後ここ北浜の金相場会所で行われた。
【参考】大阪俵物会所跡/大阪市中央区北浜2-2-15
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009618.html
江戸時代、長崎からの輸出品は干なまこ・干あわび・乾燥ふかひれなどあり、俵詰めにしていたことからこれらを俵物と称していた。海外貿易の決済で金銀銅の流出の激しいことから、一部を俵物で置き換えられた。延享元年(1744)には集荷の便のため会所が設けられたが、移転を繰り返しここに落ち着いたのは、安永6年(1777)のことであった。その後、幕府が独占集荷体制をとったもののあまり機能しなかったが、会所は幕末まであった。