⑨「天五に平五 十兵衛横町」/大阪市中央区今橋1-5集英小学校前
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009624.html
江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)★天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と★平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。
【天王寺屋五兵衛】(1623~1695)
姓名は大眉光重。父の代から大坂今橋で天王寺屋を名乗り、寛永5年(1628年)に両替店を開いていた。
寛文10年(1670年)には、大坂町奉行により両替商を統括する十人両替仲間の筆頭に任命された。手形制度を創設して信用取引のはじまりを確立したのも五兵衛である。諸大名の大坂蔵屋敷の蔵元や掛屋も務め、大名貸にも応じ、幕府御用金の徴募も代行した。以後の大眉家は天王寺屋五兵衛を代々襲名し、大坂の大商人として幕末まで重きをなした。しかし、明治維新以後は時勢の変動に対応できず没落し破産、名を残すことが出来なかった。
★「あさが来た」では、浅子の姉・春(ドラマ内では、はつ)の嫁ぎ先「山王寺屋」のモデルとされています。
【平野屋五兵衛】(~1715)
平野屋五兵衛は本姓高木氏、名は道頓、通称は五兵衛。摂津国三島郡福井村(現茨木市)の出身の江戸時代前期~中期の商人。大坂の代表的な両替商で、創業は明暦2年の鴻池両替店よりも歴史があるとされる。叔父の半兵衛正親が大坂で両替商を開くにあたり、甥の道頓を養子とし、★平野屋五兵衛を名乗らせた。草創期十人両替の中でも名家であり、1650年(慶安3)今橋一丁目に開業と伝えられており,1732年(享保17)飢饉の際窮民救済の功により家役を免除さた。江戸時代を通じ、天王寺屋五兵衛、★鴻池善右衛門らとともに十人両替として幕府御用をつとめ、威勢を張り続けたが、明治に入り銀目廃止と藩債整理によって天王寺屋同様没落の憂き目に遭った。五兵衛道頓は1715年(正徳5年)没。
【参考1】鴻池善右衛門(1608~1693)
家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とする。はじめ酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。
初代・鴻池善右衛門/鴻池新六直文(幸元)の八男。1619年に大坂へ移り、1633年に分家を立てる。屋敷のある今橋から「今橋鴻池」とも呼ばれる。1625年には大坂と江戸の間の海運業をはじめ、諸大名の参勤交代や蔵物の輸送業務を手がけた。1656年には酒造を廃業して両替商をはじめる。大名貸、町人貸、問屋融通など事業を拡大した。
【参考2】1837「鴻池善右衛門家今橋本邸(大阪美術倶楽部旧館)」
鴻池善右衛門家の今橋本邸は間口36間、奥行20間、表屋造りの巨大な町家建築であった。戦後今橋本邸は★「大阪美術倶楽部」に売却され鴻池家は芦屋へ移った。その後今橋通に面した店舗棟は★奈良富雄へ移築されてビルが建ち、難波橋筋沿いの土蔵群は駐車場となった。残った住居棟などの建築群は通りからは屋根しか見えず、これらも平成19年(2007)、ついに取り壊されてしまった。平成19年(2007)まで鴻池本邸のうち計48畳の大広間を含む住居棟の一部と茶室、庭、御納戸蔵が残り、大阪美術倶楽部旧館として利用されていた。
・・・次は「⑩適塾」ですが、豪商つながりで「⑪淀屋跡」を先に紹介します。
土佐堀川の南岸には、加島屋(ドラマでは加野屋)が代々ありました。その場所には現在、大同生命大阪本社のビルがあります。土佐堀川は、大阪市内を流れる旧淀川の分流です。中之島をはさんで北には堂島川が流れ、中之島の西端で再び合流し大阪湾に注ぎ込みます。川の名前の由来は、豊臣秀吉が天下の時代から土佐商人が暮らした土佐座にちなみます。土佐の鰹が大阪に運ばれ、そこから全国へ流通しました。
淀屋橋は、江戸時代の豪商、淀屋が自費で架けた橋です。米価の安定のために中之島に米市を設立した淀屋は、中之島に渡るために橋を架けました。淀屋橋は、大阪商人の実力を象徴するスポットでもあるのです。淀屋があった場所には記念碑が。幕府に米市場の設置を願い出た淀屋は、米の取引所「米会所」を堂島に開設します。記念碑には、往時の商家のようすを描いたレリーフがあります。
宝永2年(1705)、五代目の淀屋廣當が22歳の時に「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」ということで、幕府の命により闕所(けっしょ)処分となった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。宝永5年(1708)、この淀屋の発展と凋落の顛末が★近松門左衛門によって浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」に描かれた。
【神應寺】(淀屋の墓碑)
614-8005京都府八幡市八幡高坊24/075-981-2109
貞観2年(860)石清水八幡宮を勧請した行教が建立。行教律師坐像や狩野山雪筆の襖絵・杉戸絵はいずれも重要文化財。書院は伏見城の遺構。小高い墓地には、江戸時代の豪商、五代目淀屋辰五郎が眠る。町人に過ぎたる豪奢を理由として幕府から闕所処分(全財産没収、所払)を受けたが、その後の恩赦で八幡の田地が返還され、そこに住んだ。八幡柴座の町なかに、淀屋の屋敷跡と伝える石碑が存在する。淀屋は、代々八幡神人格を有し、神應寺に対しても扁額を寄進する等深い繋がりがあったことがうかがえる。
【井原西鶴】「日本永代蔵」
貞享5年(1688)に刊行され、各巻5章、6巻30章の短編からなる。副題として「大福新長者教」。仮名草子『長者教』になぞらえ、金持ちはいかにして金持ちになったか、町民の生活の心得を飾らずに描いた内容になっている。軽妙な文体は、後の太宰治の文体に影響を与えたといわれる。
【参考】近松研究所
https://www.sonoda-u.ac.jp/chikamatsu/top.html
江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎の作者、近松門左衛門の名前を冠する研究所です。近松に由縁の深い尼崎の地に、★「園田学園女子大学」の付置研究所として、平成元年に誕生しました。本研究所は、近世演劇や芸能、近世文学を研究することを目的とします。
【林市蔵記念像】作:渡辺義和
http://www.osakafusyakyo.or.jp/minkyo/ayumi/02.html
慶応3年(1867)、熊本藩士の子として生まれた。父は市蔵が5歳のときに38歳でこの世を去り、母は、寝たきりの姑と病弱な子どもであった市蔵の養育に生涯をささげることになる。時は明治の初めであり、母の苦労がしのばれる。市蔵は極貧の中で小学校・中学校を卒業し、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業、拓殖務省につとめた。まもなく母が世を去っている。30年間のはりつめた生活の無理と、市蔵の就職による安心感があったように感じられ、市蔵は生涯この母親に対して何もできなかったことを悔いたという。拓殖務省の内務省への合併後は内務省に勤務した後、警察監獄学校教授をつとめ、この間、明治33年(1900)に静岡県沼津市の素封家である市崎氏の娘しげと結婚するとともに、小河滋次郎博士、牧野虎次氏、山室軍平氏、留岡幸助氏と知り合っている。明治37年(1904)年には、山口県第一部長(内務部長)となり、その後、広島県第一部長、新潟県内務部長を経て、明治41(1908)年には三重県知事となり、さらにこの年、東洋拓殖株式会社理事として京城に赴任、8年間勤務した後、大正6(1917)年1月、山口県知事となり、12月に★大阪府知事に就任した。林市蔵の大阪府知事在任はわずか2年5ヶ月であるが、彼の官僚生活の最後でもあり、方面委員制度の創設をはじめ、よく人材を登用して府政を充実した。退官後は大阪を永住の地と定め、信託銀行総裁、米穀取引所理事長、中山製鋼所重役などを歴任、財界の世話役を果たし、戦後昭和27(1952)年に86歳で永眠した。
・・・大阪を支えてきたスゴイ人たち、脱帽。