あさがきた(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「大同生命」でいただいた「広岡浅子ゆかりマップ」に沿って、まだ紹介できていないところを紹介していきたいと思います。

①「大同生命」②「梅花女学校発祥の地」は紹介しましたので、次は、


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③「日本基督教団大阪教会」

550-0002大阪市西区江戸堀1-23-1706-6441-3070

http://www.osaka-church.net/

大阪教会は、アメリカの宣教師ゴルドンの熱心な伝道によって、1874明治7)年、西区本田梅本町に創立された梅元町公会を前身とし、2015年、創立141周年を迎えました。日本プロテスタント教会の中で最も長い歴史を持つ教会の一つです。

広岡浅子(18491919)さんは、日本基督教団大阪教会・宮川経輝牧師から1911年(明治44年)受洗したクリスチャンです。ご承知のように浅子さんの娘婿「広岡恵三」さんはヴォーリズさんの妻「一柳満喜子」さんです。残念ながら、現会堂がヴォーリズさんによって建てられたのは浅子さんが亡くなられた後の1922年です。


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④「福沢諭吉誕生地・中津藩蔵屋敷跡」

残念ながら、浅子さん(18491919と福沢諭吉さん(1835~1901の交流などを示す資料は現時点では見つかっていません。しかし、面識があってもおかしくないほど、互いの活躍された時期が重なります。「学問のすゝめ」が刊行された1872年(明治5)、浅子さんは23歳です。もちろん読んでおられるはずです。小説「土佐堀川」では、福沢諭吉の本を読みながら夫と語り合う場面が描かれています。

【NEWS】2015.11.15朝日新聞デジタルより

NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデル、広岡浅子が嫁いだ大阪の豪商・加島屋が幕末に各地の藩に貸した金の借用書や、浅子の手紙など約1万点の資料が、奈良県橿原市の民家で見つかった。加島屋の分家を切り盛りしていた浅子が、新政府との交渉に向けて旧藩の借用書の整理を手がけた可能性もあるという。見つかったのは江戸時代以来、奈良県で山林経営をしている岡橋家。加島屋の10代当主・広岡正直の娘が嫁いでおり、太平洋戦争の際に広岡家が加島屋関係の古文書を「疎開」させたものという。借用書は仙台、長州など藩別に封筒に入れられて整理されていた。明治政府は旧藩の借金を新設の県に引き継がせる際、金を貸した両替商らに借用書などの提出を求めており、その際に整理したとみられる。中津藩(今の大分県中津市)の借用書には、大阪の蔵屋敷に勤めていた福沢諭吉の父百助が署名したものもあった。


⑤「蛸の松」/大阪市福島区福島1丁目

大同生命TVCM特設ギャラリー有限会社トラッシュスタジオTRASH STUDIO

http://trashstudio.jp/contents/localnavi1443671210440.html

自転車で疾走する浅子。背後の川は堂島川奥に観光名所「蛸の松」がくっきりと描かれています。


・・・「蛸の松」今昔物語とあわせて、ぜひご覧ください。

http://www.takonomatu.jp/

「蛸の松」は、明治を迎えてもその雄大な姿が見られ、『大阪摂津名所図絵大成』をみると、「枝葉繁茂し四面に垂れ恰も蛸の如し、すこぶる大樹の名木なり、この辺河岸にして景色もっとも絶景なり」と紹介されています。写真にも多く残されていますが、明治の後半には枯死してしまいました。現存していれば、樹齢400年前後の巨木ですが、その切り株は現在大阪教育大学天王寺キャンパス内友松会館(同窓会館)に大切に保存されています。平成16年月、護岸の美化にあわせて、大阪府師範学校附属演習小学校(現大阪教育大学附属天王寺小学校)が久留米藩蔵屋敷跡地に開校した縁によって、同窓会である雛松会が、かつての風趣を偲んで、「蛸の松」を現在地に再現しました。


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⑥「堂島米会所跡」/大阪市中央区堂島1-3

1730年9月24日大坂堂島に開設された米の取引所。現在の大阪府大阪市北区堂島浜1丁目にあった。当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。


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土佐堀川に面した肥後橋こそ江戸時代の豪商「加島屋」が店を構えていた場所であり、その後、浅子が創業した生命保険会社(後に他社と合併して大同生命に)の本社となった。江戸時代初期に精米業から身を起こした加島屋が豪商となったのには、当時「世界最先端の金融市場」と言われた堂島米会所のシステム、そして「大名貸しなどの画期的な貸金業があったからである。堂島米会所では、米を証券化し、その現物取引が行われるとともに、世界で初めての先物取引も行われていた。加島屋はその取次を行うとともに、米証券を担保に貸金業(現在の「投資銀行」も行った。江戸中期以降は「大名貸し」が収益の中心になっている。


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・・・「大阪市中央公会堂」が見えてきました。