五代さんは、平岡浅子さんと会った次の年、1885年(明治18)49歳の若さで糖尿病で亡くなります。大阪ですでに重病でしたが、療養のためにということで東京に移りました。主治医は同郷の高木兼寛。脚気予防法を見出した「ビタミンの父」で、慈恵医科大学の創設者。当代一の名医だった。黒田清隆、松方正義、西郷従道、森有礼らが病床に駆けつける。東京築地の別邸で亡くなりましたが、大阪で盛大な葬儀が営まれました。経済界から市民まで、約4300人が会葬してその死を悼んだそうです。そして死後、彼の書簡の内容が明らかになりましたが、その殆どが金の無心で借金返済が出来ないという悲しい内容ばかりでした。
・・・とにかく、お墓参りに行きたいと思います。
【大阪市阿倍野区役所】
545-8501大阪市阿倍野区文の里1-1-40/06-6622-9986
http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/
■2001「阿倍野区民センタ-(阿倍野複合施設)」設計:昭和設計
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-118/06-4398-9877
http://www.showa-sekkei.co.jp/jp/project/bunrui9?id=99&p=1
当施設は区民センター、図書館、★葬祭場、駅前自転車駐車場と賃貸住宅との複合施設で、都市的レベルでの環境調和と整備、地域の文化活動の中核施設をめざしたものである。区民センターは大小2つのホールを中心に構成し、小ホールは客席数302席の音楽利用を中心としたホール、大ホール席数約644席の多目的ホールである。図書館は蔵書数約65,000冊、閲覧席約70席であり、木製の書架や家具でやわらかく、明るいイメージとしている。葬祭場は大式場を間仕切りして2つの中式場としても使用でき、最大1,000人規模の式典に対応できる。内外装ともに、やわらかく暖かみのある質感と色の仕上げを基本とし、外構や建築に積極的に緑を設けることで、都市部ならではの潤いあるアメニティ空間を形成している。
★展示コ-ナ-
http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M12.html
歴史豊かな阿倍野区の中で、とくに阿倍野筋(あべのすじ)遺跡・阿倍寺(あべでら)跡の資料を展示しています。阿倍野筋遺跡の資料は古墳時代前期の竪穴住居から出土した土師器を中心に、土錘やヤスなどの漁具、縄文時代の石鏃を展示しています。一番の見どころは、朱を入れていた痕跡がのこる古墳時代の土師器の鉢で、住居の中から出土したものです。阿倍寺跡からは奈良時代から室町時代にかけての軒丸瓦・軒平瓦を展示しています。
【南霊園】
545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19-115/06-6661-5924
http://www.kankyoujigyou.or.jp/business/cemetery/minami/
江戸時代には、★「千日前」に刑場・墓地・火葬場がありました。下難波と呼ばれていましたが、大阪夏の陣で市中が焦土と化したあと、各所にあった墓地が千日前に集められました。墓地のほか、大小の寺院は、小橋村(天王寺区)、天満村(北区)、東西高津村(天王寺区)に集められましたが、これは大阪城代松平忠明の遠大な都市計画に基づくものであったとされています。徳川時代の大阪の墓所は、明治7~8年にかけて、市内の三ヶ所にまとめられました。それらのうち、明治7年3月に天王寺村(現阿倍野区)にできたのが現在の南霊園です。
当園は当初★大阪府が開設し、★八弘社(明治8年7月~明治40年2月)を経て明治40年2月★大阪市が(買収)引継ぎ、昭和5年には「阿倍野葬儀所」、18年には「市立南斎場」と改称され、現在の「南霊園」に至ります。同地に阿倍野斎場(火葬場・火葬所)もありましたが、斎場のほうは平野区の「瓜破霊園」の斎場に統合されて現在はありません。この間、阪神高速道路建設のため一部移転しましたが、現在61319㎡の敷地に約13700基の墓石が建立され、多くの方のお参りがあります。また、大阪市の南の玄関口天王寺・阿倍野のターミナルから徒歩で約15分の交通至便の場所に立地し、著名人の墓石も多く墓参者も一年を通して途切れることも無く、都心の中の安らぎの空間を形成しております。
【五代友厚の墓】
「南霊園」に従五位勲四等五代友厚墓として葬られています。五代さんの大阪での功績はとても偉大で、葬儀は御堂筋パレード以上の葬列であったと言われています。また、石灯籠もたくさん献じられていました。
・・・「南霊園」にお参りさせていただいた、もう一つの理由は、
★無縁堂/市内5ヶ所の市立斎場で火葬され、遺族の引取りがなかった遺骨をお祀りしています。毎年秋のお彼岸には慰霊祭を行っています。
・・・「無縁堂(納骨堂)」は改修工事中でしたが、「無縁者合葬の碑」「慰霊碑」「供養碑」などに参ることができました。それらの両脇に建っている像(迎仏)は、★「千日墓地」から移設されたもののようです。
・・・参考に「古地図」を掲載しておきます。