・・・「大阪の恩人」五代さんについて、少し詳しく調べてみました。
【五代友厚(才助)】
薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。
死没:明治18年(1885)9月25日/満49歳没
http://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/godai.html
天保6年(1836)12月鹿児島に生まれ、14才の時に、世界地図を模写して藩公に献上した才人であった。欧州留学して外国事情にあかるいことから、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。これが大阪とかかわる第一歩であった。五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。五代が自ら起こした事業、設立に関与した会社は数多い。東の「渋沢栄一」と並び称される五代が51才の若さで亡くなったことは、大阪にとってまことに不幸であった。遺言で大阪の土となった。墓は★「阿倍野斉場」にある。当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。
【参考】「坂本龍馬」
生誕:★天保6年(1836)11月15日(1月3日)
死没:慶応3年(1867年)11月15日(12月10日)/満31歳没
【太陰暦から太陽暦へ】
明治になって、いろいろなことが新しく変わりましたが、それまでの太陰暦(天保暦、太陰太陽暦、旧暦)が太陽暦(新暦)になったのも、その一つ。1872年(明治5)11月9日、参議・大隈重信は突如、詔書を以って太陽暦を採用する事を布告しました。同年12月3日を、1873年(明治6)1月1日としたのです。したがって、明治5年の12月は、2日までで終わり、同時に、太陰暦もそこまで。翌日の明治6年元旦からは太陽暦。
・・・なんと五代さんは、坂本龍馬と同い年だったんですねえ。さて、薩摩(鹿児島)出身でありながら、どうして大阪のためにつくしたのでしょうか。
【大阪商業講習所】
550-0012大阪市西区立売堀2-2阿波座南公園
https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/about/university/history
大阪市立大学の源流である「大阪商業講習所」は、1880年(明治13)に大阪商法会議所(現大阪商工会議所)や株式取引所(現大阪証券取引所)の生みの親であり、「近代大阪経済の父とも言われる五代友厚をはじめ、当時の大阪財界有力者十六名によって創設されました。「商売は学問よりも経験」と考えていた当時の大阪市民に、五代は「欧米先進国と対等に渡り合うには、商人にも学問が必要」と説き、東京に次ぐ我が国二番目の商法学校「大阪商業講習所」を設立したのです。その後、1889年(明治22)には、市制特例による大阪市制の発足に伴い、「市立大阪商業学校」へと発展していきます。地下鉄阿波座駅近くの★「阿波座南公園」の一角に「大阪商業講習所跡」と記された小さな記念碑が建っています。大阪商業講習所は、商業の町大阪に商業学校がなかったことから、商業教育機関の必要を感じた★五代友厚らによって明治13年この地に開設された。この講習所は、翌明治14年には大阪府の管理となったが、のち市立大阪高等商業学校、大阪商科大学、★大阪市立大学へと発展した。
・・・五代さんが江戸に上京したとき、人柄を表す発言がありました。
「江戸は将軍のおひざもとでごあすな。★因循姑息で、おいは性には合いもさんど。」
(★古い習慣ややり方にとらわれて改めようとせず、その場しのぎに終始するさま。)
【五代友厚邸跡】/現・大阪科学技術センター
550-0004大阪市西区靭本町1-8-4/06-6443-5316
五代友厚邸は昭和35年(1960)まで残っていましたが、大阪科学技術センタービルの建設が決まり取り壊されることになりますが、その寸前の写真が株式会社★「大林組」にて保存されています。五代友厚は、同じ薩摩藩出身である小松帯刀とは懇意にしていましたが、小松帯刀の死後、残された愛妾お琴とその娘を屋敷内に引き取っていたそうです。
◆【大林組歴史館】◆(大林組旧本店ビル)
540-0031大阪市中央区北浜東6-9ルポンドシエルビル3F/06-6456-7009
http://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/
【参考】「坂本龍馬」/大政奉還、しかし新政府への入閣は固辞
1867年(慶応3)4月上旬、亀山社中を土佐海援隊に改編し、龍馬は海援隊の隊長となりました。同年6月頃から、薩摩藩と長州藩は武力による幕府の討伐を企てようとしますが、武力討伐を避けたい土佐藩は、龍馬に何かよい策はないかと求めました。龍馬は、大政奉還を盛り込んだ8つの策である船中八策を提案し、後藤象二郎とともに推し進めました。その結果、同年10月、徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出ます。そして同月14日に明治天皇に大政奉還を上奏しました。この大政奉還により、約700年も続いた武士による政治は終わりを迎えました。そして龍馬は新政府職制案の新官制擬定書を策定しましたが、その中には西郷の名前は入れても自身の名前は入れていませんでした。龍馬は西郷に新政府への加入を勧められますが、★「わしは世界の海援隊をやります」と答え新政府へ入ることを断ったといわれています。
・・・なんだか「坂本龍馬」と五代さんは似てますねえ。
五代さんが着任した大阪では、日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかったといいます。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていたとのこと。経営に才覚がありながら元来、薩摩武士ですので、不正行為は許せない性格。断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒みました。また、商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念もありました。
・・・五代さんは商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だったようです。
【五代友厚旧邸】弘成館(鉱山の管理事務所)/現・日本銀行大阪支店
530-0005大阪市北区中之島2-1-45/06-6202-1111
五代は備後町、北浜、靭と住居を変わりましたが、1885年に中之島へ居を定めます。その年の8月には東京で養生生活を始め、9月に逝去したため、実際に暮らしたのは半年あまりのことでした。弘成館は五代が鉱山開発に積極的に取り組んだ際、鉱山管理の管理事務所として開かれました。