・・・なんとか滑り込みで、「琳派イメージ」展の最終日に行ってきました。その途中、いつも前を素通りしていた「並河記念館」に立ち寄ることにしました。
◆【並河靖之七宝記念館】◆
605-0038京都市東山区三条通北裏白川筋東入堀池町388/075-752-3277
http://www8.plala.or.jp/nayspo/
明治期から昭和初期にかけて活躍した、日本を代表する七宝家であり帝室技芸員にも任命された並河靖之の自宅兼工房が並河靖之七宝記念館。京都は東山、三条神宮道を一筋上った白川沿いに建つ虫籠窓、駒寄せ、一文字瓦を伝える明治時代の町家である。ここには靖之の作品130点余りを所蔵。並河家所蔵の七宝作品は世界の美術界でも貴重なコレクションでもあり、何よりも作家本人の生活と創作の場で作品を鑑賞できることが、この館の見所である。(帝室技芸員:旧宮内省に属し、宮中で用いる工芸品・美術品の制作などにあたった美術家。勅任官待遇の名誉職。)
明治27年に建てられたこの建物は、表屋・主屋・旧工房・旧窯場が国登録有形文化財に指定されており、外観は大規模な表屋造で京都の伝統的な商家の構えをしている。海外から客人を迎え入れた応接間は当時のままで、この部屋の鴨居の高さが少し高いのは、外国からのお客様への配慮の証。ここから世界各国に並河の七宝が旅立っていった。町家の特徴のひとつである通り庭(ダイドコ)も展示期間中は見学出来る。隣同士で親しかった★「植治」こと七代目・小川治兵衛が、明治の大事業「琵琶湖疏水」を利用した「水の庭」。初めて個人邸に水を引いて造った庭は、大部分をしめる池から急激に浅瀬へ向かい、棗形の手水鉢で二手に分かれる流水は、躍動感に富む斬新な構成。景石や燈籠など、石へのこだわりも見どころのひとつである。また、この庭は京都市指定名勝にも指定されている。
【並河靖之】
弘化2年(1845)に高岡家の三男として、京都の柳馬場御池に生れました。幼名を留蔵といい、実父・高岡九郎左衛門は武州川越城主松平大和守の家臣で京都詰め役人で、靖之は武家の子息として厳しいながらも裕福な家庭で育ちました。安政2年(1855/数え11歳)、靖之は天台宗門跡青蓮院の坊官をつとめる並河家の養子となり、養父・並河靖全の急逝にともない当主となり青蓮院宮近侍を勤め、当時の天台座主・青蓮院宮入道尊融親王(後の久邇宮朝彦親王)に仕えました。幕末から明治維新の変革期を朝彦親王とともに過ごすも、混沌とした世情を生きぬくために、明治6年(1873)より宮家に仕える傍ら七宝を手掛け、明治11年(1878)に七宝業で独立し、紆余曲折を経て世界を凌駕する七宝家となりました。
大正12年(1823)、並河七宝の約50年にわたる営みは、靖之の英断により一代限りの事業として幕を引きますが、その間に製作された並河七宝の特徴や作風は、実に多彩であり、広い作域をみることができます。製作技法の改良、それによる図柄や造形の広がり、分業・工場制による現代でいうところの工房製作などが、並河七宝の魅力をひき出していたともいえ、依頼主や時代の要請にも様々な創意工夫を込めて応え、常に新たな七宝製作に取り組んでいたことがわかります。しかし、その一方で、どの時代、どんな図柄の並河七宝にも「みる人の心を惹きつける」不思議な魅力があり、靖之と職工たちによって製作された全ての並河七宝には、どこか古風で、高雅な品格が備わっています。ふとした機縁により七宝に自分の人生をかけ、激動の時代を生き抜いた靖之ですが、並河七宝から醸し出される古雅な雰囲気には、七宝に出会う以前から培われてきた靖之の生い立ちにおける文化的な教養が大きく影響しているといえます。さらに様々な出会いも靖之の見識と世界を大いに広げ、並河七宝を独創的なものとし、他の追従できないものとしています。
・・・すぐ近くに★「植治」もありました。
◆【京都国立近代美術館】◆
606-8344京都市左京区岡崎円勝寺町/075-761-4111