「大同生命」は、1902(明治35)年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営していた「加島屋」が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との合併により設立されました。江戸時代、大坂有数の豪商であった「加島屋」は、明治維新の動乱により家勢が傾きます。その危機を救ったのが、17歳(数え年)で加島屋・広岡信五郎に嫁いだ★広岡浅子です。
浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」を座右の銘とし、加島銀行の設立や鉱山経営に参画。さらに中川小十郎をはじめとする有能な人材を招聘し、「大同生命」の創業にも深く関わるなど、その手腕を遺憾なく発揮します。加島屋を立て直した浅子は、後事を女婿の★広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位向上に心血を注ぎます。大正8年、71歳でその生涯に幕を下ろした浅子は「普段から言っていることが遺言」だとして、最後の言葉を残しませんでした。広岡浅子は、江戸・明治・大正と全力で駆け抜けたのです。
浅子が大阪と炭鉱のある九州を忙しく往復していた頃、成瀬仁蔵と名乗る人物が浅子の元を訪ねてきました。アメリカから帰国後大阪の★「梅花女学校」校長となっていた成瀬は、女子にも高等教育が必要と考え、日本で最初の女子大学を設立しようと奔走していました。浅子と面会した成瀬は、資金援助などの賛同を依頼するとともに、自身の著作『女子教育』を浅子に手渡しました。浅子は九州滞在中にこの『女子教育』をひもとき、「繰り返して読むこと三回、感涙止まらなかった」と述懐するまでに共感し、「この人こそ真に女子教育を託すべき人」と、成瀬への協力を決心します。やると決めたら、どんなに困難があろうともそれを乗り越えようとする浅子の性格です。自らがお金を寄付するだけでなく、成瀬とともに、いや成瀬をも叱咤激励し、自らが大学を創らん勢いで政財界の有力者に女子大学の必要性を説いて回り、次々と協力を取り付けていったのです。
その結果、ついに1901(明治34)年、日本初の女子大学★「日本女子大学校(現在の日本女子大学)」が設立されたのです。日本女子大学校の設立に尽力し女性運動の有力な支援者となった浅子は、前途ある若い女性に対する教育を惜しみませんでした。「女性も社会形成の一員であり、その女性に教育をしない手はない」という信念を持ち続けた浅子は、1914(大正3)年から死の前年まで、御殿場・二の岡にあった避暑別荘に20名程度を招き、夏期勉強会を毎年開催します。この勉強会に参加した若き女性たちは、後に政治、教育、文学などあらゆる分野で日本を代表する女性として活躍しました。
■1925「大同生命肥後橋ビル」/設計★メレル・ヴォーリズ
大同生命館、大同生命ビル、大同ビルとも称された。大同生命保険会社により本社社屋として建築が企てられたもので、用地は大同生命創立者たる広岡久右衛門の邸があったかつての大阪府大阪市西区土佐堀通一丁目1番(現・大阪府大阪市西区江戸堀一丁目2番1号)の地である。建築設計は★ヴォーリズ建築事務所、構造顧問は★内藤多仲に委嘱とされた。この計画に当たって、ヴォーリズと大同生命広岡恵三社長は1920年(大正9)4月より8月までの間、アメリカへの視察旅行を行い、当地において幾多の生命保険会社を見学したのであった。
※1919年(大正8)★一柳満喜子は次兄★広岡恵三(加島銀行、大同生命二代目社長)の自宅設計に設計者として招かれていた建築家★ヴォーリズと運命的な出会いがあり、★広岡浅子の後押しもあって結婚する。※
建設は1922年(大正11)10月4日着手された。然るに工事途中突発した関東大震災をふまえ、暫時工事中止の上、耐震の向上のため当初計画の10階建てを9階建てにするなどの設計変更が加えられることを経て、1925年(大正14)6月6日落成した。大同生命は1972年(昭和47)新本社社屋を大阪府吹田市江坂に完成させそこに移転したが、それ以後も当館は引き続き同社社屋として維持される運びとなった。時勢は移り、同社は当館解体撤去の上跡地に新本社社屋(現・大同生命大阪本社ビル)を建築して、再び当地に本社を復旧する計画を1987年(昭和62)7月発表し、1990年(平成2)当館の取り壊しに着手。
■1993「大同生命大阪本社ビル」設計★一粒社ヴォーリズ建築事務所・日建設計
http://www.vories.co.jp/work/commerce/3.html
旧大同生命ビルディングは界わいのランドマークとして親しまれ、街の財産となっていた。新しい社屋には、その社会的価値の継承が試みられた。テラコッタの外壁、チューダー式アーチや屋上に並ぶピナクルなど、旧ビルのネオゴシック様式を受け継ぐその姿は、ガラス張りの高層ビルには無い新たな近代的オフィスビルを実現し、再びランドマークとして親しまれている。一部分だが旧大同生命ビルディングのテラコッタが敷地内に公開保存されており、見ることが出来る。
■1990「大同生命南館ビル」
550-0002大阪市西区江戸堀1-2-11
南館地下には、重さは18トンもある旧ビルの金庫扉を移設、展示されていました。さらに、側面に五三の桐紋が彫られた「秀吉ゆかりの井戸」も残されてました。昔の加島屋の屋敷内にあった千利休設計と伝わる茶屋「三香庵」の片隅にあったそうです。そして、地上への階段脇にあるのが、
★1990「湧雲」作:小田信夫
http://odanobuo-art.com/index.html
・・・建物とその歴史・展示内容の「三拍子」そろったミュージアムへ、ぜひこの機会に行ってみましょう。