続大学ミュージアム(62) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・歴史と伝統そして「ヴォーリズ建築」のあるキャンパスを一度は歩いてみたい、とうとう、その機会がやってきました。


じょが1


「大阪環状線改造プロジェクト」進行中

JR玉造駅に「ビエラ玉造」が2014月18日(火)オープン

https://www.westjr.co.jp/press/article/2014/02/page_5189.html

JR西日本グループでは、魅力あふれる大阪環状線をつくり上げるべく、「大阪環状線改造プロジェクト」をスタートさせ、鉄道の機能充実を図り、お客様満足度の向上を目指すとともに、駅構内や高架下商業施設の開発・リニューアルによって、新たな価値を創出する施策を重点的に取り組んでおります。このたび、プロジェクトの一環として、玉造駅において2013年9月から着工、開発を進めてまいりました「ビエラ玉造」が、2014年3月18日(火)に開業することとなりましたのでお知らせいたします。当施設は、「健康と日常生活支援」をテーマに、フィットネスジムや100円ショップ、飲食店(ラーメン)、保育園が入店いたします。玉造駅ご利用のお客様や駅周辺にお住まいの方々に対して、日々の生活を充実させる施設を目指します。なお、建物の外装は大阪環状線で長く親しまれているオレンジ色103系車両をモチーフにしたデザインとしています。


じょが2


★「大学祭2015

11月14日、15日の2日間、大阪女学院大学・短期大学の大学祭を開催します。皆様のご参加をお待ちしています。

◆「大阪女学院大学・短期大学」

540-0004大阪市中央区玉造2-26-5406-6761-4013

http://www.wilmina.ac.jp/oj/

大阪の中心に位置する大阪女学院は、豊かな緑に恵まれたキャンパスを有しており、ヘールチャペルをはじめとする校舎群は、明治時代にアメリカから宣教師として来日したウィリアム・ヴォーリズの設計によるもので、彼の人柄を表すような温かみのある空間を創り出しています。


じょが3


1884(明治17)年1月7日「ウヰルミナ女学校」開校

大阪女学院のルーツであるウヰルミナ女学校(Wilmina Girls’School、維耳美那女学校)が、米国カンバーランド長老教会外国宣教局(mission)のミッションスクールとして創設された。創設者は外国宣教局の教育事業責任者A.D.ヘール(Alexander D.Hail)宣教師で、弟のJ.B.ヘール宣教師と協力して大阪市西区にあった川口外国人居留地19番Aとその隣接地22番(計約370坪)で開校した。校名は最初の寄付者 William Saunders のWilと、その妻 Ermina の mina を組合わせ、「ウヰルミナ女学校」と名付けた。

1886(明治19)年9月初旬「大阪一致女学校」開校

大阪女学院のいまひとつのルーツである大阪一致女学校が、米国北長老教会宣教局のミッションスクールとして、教育宣教師のAnn E.Garvin校長を創設者として、川口外国人居留地16番(258.5坪)の宣教師館で開校した。校名は、宣教局が大阪で創設した教会を一致教会と称したので、「大阪一致女学校」と名付けられた。翌1887(明治20)年1月に西区土佐堀3丁目の旅館を借り、改装してそこに移転し、さらに1888(明治21)年1月には西成群清堀村(現在の校地で、地名は幾度か変更した)に土地約2,400坪を購入し、校舎を新築して移った。


じょが4


1892(明治25)年4月1日大阪一致女学校の校名を「浪華女学校」と改称

1899(明治32)年8月3日文部省訓令12号」発令

文部省は、訓令12号を発令し、法令による学校においては特定の宗教に基づいて教育を行うことを禁止した。ウヰルミナ女学校、浪華女学校はともに上級学校への入学資格を失う不利のなか、しかし建学の精神を守り、毎日礼拝を続け、キリスト教教育を続けた。そのため、1889(明治22)年頃から始まった反外国人キャンペーンとも重なって両校の入学者が激減したが、その後、その風潮もゆるみ、1903(明治36)年からは、生徒数は増加していった。

1904(明治37)年4月1日ウヰルミナ女学校浪華女学校が合併

ウヰルミナ女学校の関係教会であるカンバーランド長老教会と、浪華女学校の関係教会である日本基督教会が1889(明治22)年10月に合同した。そこで同じ教育方針を持つ大阪の二つの学校を合併し、校名は「ウヰルミナ女学校」を継承、校地校舎は浪華女学校に統合した。1939(昭和14)年からの皇民化政策で、異民族の人々に日本風の名前を用いる創氏改名を迫った政府が、外国人の名前に由来する校名の変更を強制することが必至となり、やむなく校名を★「大阪女学院高等女学部と改称した。


じょが5


【参考】14BELCA賞ロングライフ部門表彰大阪女学院北校舎・チャペル

竣工1951年用途校舎・講堂

設計(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所

施工(株)竹中工務店

大阪女学院の校門を入ると深い緑の木立とアメリカンモダニズム様式の北校舎、チャペルが創り出す美しいキャンパスが視野に飛び込んでくる。昭和20年焦土の中で再開を諦めかけた学園関係者は、いつから入学試験を行うのかという保護者の声に後押しされながら、授業再開に向け教職員、生徒、保護者が一緒になって手造りでキャンパス再建に立ち上がった。この熱意が、昭和26年米国教会の援助を受けて建設された北校舎、ヘール・チャペルに結実し、この再建を「喜びと感謝と希望の根源」と受け継がれた学園関係者の心が、その後も絶える事無く続く維持・保全につながっている。戦後復興期のヴォーリズの作品であるこの建物は、施工にもその理念や主義が反映され、簡素ではあるが質の高い建物として今日まで生き続けてきている。その間、所有者である大阪女学院、一粒社ヴォーリズ建築事務所、施工者が三位一体となって運用管理計画を立て、計画にもとづく点検・維持修繕が丁寧に行われている。築後30年目に設備の充実、外装サッシュ取替えの大規模修繕が実施されている。50年目の2000~01年にかけては構造体の耐久性の維持更新として耐震補強工事と電気・空調設備、教育設備の更新が行われる等、新たな価値の創出、付加にも絶え間ない努力が続けられている。北校舎の耐震補強工事ではアメリカンモダニズム様式のオリジナルデザインを尊重し、既存外壁面にRC造の外殻フレームを新設する手法をとっている。この結果、オリジナルの垂直線を強調するデザインは更に力を持つことになり、チャペルと対となって様式美を創り出している。内装も当時の職人によって丹精を込め施工された人研ぎテラゾーの床や洗面カウンター、石膏レリーフなどを良く保存・再現している。設備の空調配管は天井高さが低いため、廊下横断をアーチ型で化粧してうまく納め、違和感を持たせないように工夫している。チャペル棟では、寒さ対策として冬場には座席の下部に取り外し可能なパイプヒーターを設置して瞬時に快適温度になる工夫がされていて違和感がない。この建物に注がれる関係者の深い思いが感じられ、これからも永く愛され生き続けると思われる素晴らしい建物であると評価された。