・・・「竹中大工道具館」の「茶室」でお抹茶をいただき、裏山?からの眺めも最高でした。この少し奥に「布引の滝」があるのです、行くしかないでしょ。
◆「布引の滝」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/rokkosanpo/guide/b02/index.html
新神戸駅の山側、生田川中流にかかる滝で神戸ウォーターの源泉のひとつ。「日本の滝百選」にも選ばれています。「布引の滝」は雄滝(おんたき)・雌滝(めんたき)・夫婦滝(めおとだき)・鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝の★総称で、なかでも雄滝は高さ43mの名瀑です。新緑や紅葉の季節には、遊歩道の散策もおすすめ。
布引の滝は、平安朝の昔から多くの貴族や歌人などが訪れた名瀑で、★『伊勢物語』などの書物にも登場します。布引の滝周辺のハイキングコースや下流の生田川公園には、平安~江戸時代に詠まれた、滝にまつわる★三十六名歌の碑が建てられています。
■1900布引水源地水道施設「布引水路橋(砂子橋)」/重文指定年月日:20060705
651-0058兵庫県神戸市中央区葺合町
布引水源地水道施設は、神戸港に注ぐ生田川の中流域に位置する上水道施設である。神戸水道事務所の吉村長策及び佐野藤次郎を中心として建設が進められた。五本松堰堤、雌滝取水堰堤及び布引水路橋は、明治33年の竣工である。同40年に分水施設、翌41年に締切堰堤及び放水路隧道が増設された。全体計画や施設配置には、土砂流入防止を意図した貯水・取水機能に分水・放水機能を付加するなど特色がある。布引水源地水道施設は、神戸の創設水道施設で、建設当時、最大規模を誇り、明治期を代表する水源地水道施設の一つとして重要である。中でも、五本松堰堤は、我が国における重力式コンクリート造堰堤の嚆矢で、近代堰堤の一つの規範を示す構造物として、土木技術史上、高い価値がある。
・・・やっぱり下から見上げないと。
【伊勢物語】
その昔、一人の男が、津の国の莵原の郡の芦屋の里に、自分の荘園があるので、そこへ行って住んだ。古い時代の歌の中に、芦屋の灘の塩焼き作業には途切れる暇がないので、黄楊の小櫛を髪に差すようなおしゃれ心もないままにあなたに逢いに来てしまった私なのでしたと詠んだものがあるが、それはこの里を詠んだものである。この地を芦屋の灘と呼んだのだった。この男は、本式とは言えぬものの、一応宮中出仕者ではあったので、それを当てにして衛府の佐の連中が男のもとに集まって来ていた。この男の兄もまた衛府の督なのだった。彼の家の前の海辺を遊興して、「さあ、この山の上にあるという★布引の滝を見るために山登りしてみよう」と言って登って見たところ、その滝は、常と異なる威容である。長さは60メートル、幅は15メートルほどもある岩盤の表面に、白絹が岩肌を包んでいるような感じで水が流れていた。そんな滝の上流に、円座の大きさの出っ張った石があった。その石の上に流れかかる水の玉は、ミカンやクリの大きさでこぼれ落ちる。
その場に居合わせた人全員に、滝の歌を詠ませた。例の衛府の督が最初に詠んだ。世に出ることの出来る日を、今日か明日かと待ち続ける日々を送っている私は、甲斐もない涙を滝のように流しているけれど、その涙の滝とこの滝と、どちらの水位が高いだろうか。次に、主人役の男が歌を詠んだ。白玉の飾りを繋ぎ止める糸を抜き取って、玉をばらばらに散らしてしまう人がいるらしい。間断なく散る白玉のような水の滴が、袖も狭しと私の袂を濡らしているよと詠んだところ、そばにいた人には、何かおかしい事情でもあったのだろうか、この歌にやんやと騒いで、歌は詠まずに終わってしまった。帰路の道は遠く、今は亡き宮内卿もちよしの家の前に来たところで、日が暮れてしまった。自分の住む家の方角を見ると、漁師の漁り火が数多く見えるので、例の主人役の男が歌を詠む。あれは晴れた夜の空に輝く星だろうか、川辺にまたたく蛍の光だろうか、そんな錯覚を催すような、私の住み家のあたりの漁師の漁り火だなあと詠みながら、家に帰って来た。その夜は、南風が吹いて、波はとても高かった。翌朝、その家にいる女の子たちが外へ出て、海中に浮かんだ海松(みる)が波で浜辺へ打ち寄せられたものを拾い集めて、家の中に持って来た。例の男の妻の家から、そうした海松(みる)を高い一本足の食台にうずたかく盛って、柏の葉で覆って出してきたが、その柏の上に次のような歌が書いてあった。海の神様が髪飾りとして差すものとして神聖な扱いをする海藻も、あなたのためには惜しむことなく、海の神様は届けてくださいました。田舎の人の歌としては、出来すぎの歌であろうか、不出来な歌であろうか。
■1900布引水源地水道施設「雌滝取水堰堤」/重文指定年月日:20060705
651-0058兵庫県神戸市中央区葺合町
布引水源地水道施設は、神戸港に注ぐ生田川の中流域に位置する上水道施設である。神戸水道事務所の吉村長策及び佐野藤次郎を中心として建設が進められた。五本松堰堤、雌滝取水堰堤及び布引水路橋は、明治33年の竣工である。同40年に分水施設、翌41年に締切堰堤及び放水路隧道が増設された。全体計画や施設配置には、土砂流入防止を意図した貯水・取水機能に分水・放水機能を付加するなど特色がある。布引水源地水道施設は、神戸の創設水道施設で、建設当時、最大規模を誇り、明治期を代表する水源地水道施設の一つとして重要である。中でも、五本松堰堤は、我が国における重力式コンクリート造堰堤の嚆矢で、近代堰堤の一つの規範を示す構造物として、土木技術史上、高い価値がある。