イケフェス大阪(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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1953・1997改修「ギャラリー再会」登録年月日:20070515

556-0002大阪市浪速区恵美須東1-4-1606-6641-3093

http://www.radium.co.jp/saikai/  

現在の通天閣が姿を現わす前の1953年に、通天閣の足元にオープンした喫茶店。現在も美しく維持され、不定期に使われていますが、イケフェスに合わせて時間限定でオープンしていただくことに。若き日の石井修が丹精を込めて設計した愛らしい空間です。


さいか1


新世界の中でも異質な雰囲気をかもしだしている南欧風のたたずまい。かつて新世界はモダンデザインの最先端の町。この建物は、昭和28年に建築家・石井修氏の設計で純喫茶「再会」として建てられました。「再会」の美しさに惹かれ銀幕のスターたちもよく遊びに来ていたそうです。そんな華やかな時代から時が流れ、その後も地域の人に大切にされ親しまれていましたが、喫茶閉店後ラジウム温泉の代目社長にひきとられ、平成年に改修を終え、「ギャラリー再会」としてよみがえりました。


さいか2


抑揚のきいた外観は、どんとした存在感があります。窓には2本の細いねじり柱・2階の窓にも半円アーチを支えるように洋風の太いねじり柱がアクセントとなっています。 外観の印象に劣らず中に入ると、最初に目に飛び込んでくるのは中央の飾り柱。柱上部のアーチを支え優雅な雰囲気です。の空間の最大の見せ場は、カーブを描いて階へ昇る階段。階段の曲線美と字型の手すりや、全体のフォルムのこだわりには感動しました。階に昇ると部屋の中央にはレンガを用いた大きな暖炉があります。天井の木部は当時の表情を残しています。奥にはグランドピアノが置かれ、コンサートが定期的に開かれています。内装を彩る装飾にも、代目社長のこだわりが端々に感じられます。その代表が高い天井から美しく輝くシャンデリア。細部のインテリアも「ギャラリー再会」の彩りに可憐に花を添え、過去の華やかな時代を彷彿とさせてくれました。ふと目にした時計と鏡は、喫茶「再会」の開店祝いに片岡千恵蔵さんから寄贈されたもの。


さいか3


石井修

大正11年に生まれる。奈良県出身。昭和15年大林組に勤務し、昭和31年美建設計事務所を設立。「再会」は、石井氏が建築家として独立する直前の作品です。「再会」の仕事の後、石井氏は京都・太秦の片岡千恵蔵さんの自邸の増築も担当されました。1987年『目神山

の一連の住宅』で日本建築学会作品賞1987年『目神山の家8』で吉田五十八賞を受賞2002年『目神山1回帰草庵』でJIA25年賞大賞受賞、平成19年9月自宅にてお亡くなりになりました。

【参考】生きた建築(大阪セレクション)

http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000266754.html

※プレートデザイン

後藤哲也(大阪市生きた建築ミュージアム推進有識者会議委員/株式会社オー・プロジェクツ代表取締役)

http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000288908.html

大阪市が選んだ50件の生きた建築(大阪セレクション)に贈呈された選定プレート。このプレートには、株式会社モリサワの協力により、1948年の創業以来、大阪を拠点に文字文化を牽引してきた同社が1955年に初めて開発した自社書体フォントを使用しています。生きた建築には、建物そのものだけでなく、看板や案内図など時代を映すデザインも残されています。建築家とともに建築をつくりあげた大阪のデザイナーたちにも思いを馳せながらそれらを見れば、生きた建築の楽しみ方も幅が広がるでしょう。


さいか4


★「ポッキー・プリッツの日」

http://www.pocky.jp/event/tsutenkaku2015/index.html

・・・なんと私のすぐ前のお子さんが「11秒11」の記録を出し、会場は大盛り上がりです。

■「新世界国際劇場」

556-0002大阪市浪速区恵美須東2-1-3206-6641-5931

NEWS新世界日活が閉館「ロマンポルノ」40年の歴史に幕

昭和の風情漂う大阪・新世界の成人向け映画館として親しまれた「新世界日活」(大阪市浪速区)が2015年9月30日に閉館する。娯楽の多様化に伴い近年は入館者数が減少。「これも時代の流れ」。往時のにぎわいを知る常連客らが名残を惜しむ中、40年の歴史に幕を下ろす。日活新作映画を初上映する封切館として昭和29年に開館。20年代は映画ブームの最中で、界隈には日活だけでなく東宝や大映など約10軒の映画館があった。かつてのにぎわいぶりを知る関係者は「新世界は一大映画街だった」と振り返る。新世界日活を運営する「橋本土地興行」社長の橋本芳子さん(71)によると、3月に87歳で亡くなった夫で先代社長の秀太郎さんと親交が深かった宍戸錠さん、高橋英樹さんら日活黄金時代のスターも舞台あいさつで同館を訪れた。ただ、テレビの普及とともにブームは下火に。経営難に陥った日活は40年代半ばから制作費の安い「エロス路線」へ切り替えた。同館も51年に現在の建物に移って約200席に縮小し、日活の主流だった「ロマンポルノ」を上映した。働く男性らを中心に人気を集めたのもつかの間。今度はビデオが登場し、客足は次第に遠のいた。63年には日活もロマンポルノ制作を打ち切った。現在、同館で上映しているのは旧作や「エクセスポルノ」と呼ばれる性描写の多い作品だ。インターネットの普及も衰退に拍車をかけ、芳子さんは「ここ10年ぐらいのお客さんは本当に数えるほど。今の売り上げは電気代にもならない」と苦笑する。近年は館内で禁止行為を行う客が目立ち、対応に苦慮することも多くなった。平成4年に女性同士やカップル専用のシート(約20席)や出入り口を設置。足しげく通うファンのため予告チラシは欠かさず刷り、今では珍しい館内アナウンスも芳子さん自身が行う。「ロマンポルノを純粋に楽しめる」と近畿以外から訪れる客も少なくない。成人映画の全盛期を知る新世界日活ファンの男性(59)は「シネマコンプレックス(複合映画館)が一般的な時代にあって、映画館らしい映画館がなくなってしまうのは残念。成人映画だけでよく今日まで続けてくれた」とねぎらう。芳子さんは「時代の流れは仕方ないが、映画を楽しめる環境が整っていると自負している。最終日までお客さんをお迎えしたい」と話した。「さよなら月間」と位置付け、最終日(30日)まではロマンポルノの名作を3週連続(各日3作品)で上映。閉館後は演芸や歌謡ショー向けのホールとして12月中旬ごろに新装オープンする。問い合わせは新世界日活(電)06-6633-4554


さいか5


◆「ジャンジャン横丁」大阪市浪速区恵美須東3丁目

http://www.osaka-museum.com/spot/search/index.html?vi=20&m=d&id=6

「ジャンジャン横丁」は通称で、正式名称は「南陽通商店街」である。1918年に開業した飛田遊廓(1958年廃業)と新世界をつなぐ道筋として1921年、橋本傳三郎の尽力で開通した。当時の地名は橋本の出身地である島根県の旧国名に因み「石見町」と称していた。開通当時は関西本線を地下道でくぐる計画であったが、地元の反対にあい踏切とな紆余曲折の末、1923年ごろに地下道が開通。当時としては一級の歓楽街であった新世界と花街をつなぐルートだったため、多くの酔客が出入りし当時は肩をよけないと通れないほどの雑踏が、軍艦内の通路に似ていることから「軍艦横丁」と呼ばれていた。昭和初めには「両側から湧き起る三味線の喧騒、途方もない高い声を張り上げて、やけに喚き立てるサノサ節屋、串本節や、道頓堀行進曲。さういふものが一緒になって、道行く人の心を沸き立たせる。「ジャンジャン横丁」はこの三味線の撥音に由来する。この喧騒は戦後も続き、道沿いには飲み屋や射的の店が立ち並んでいた。

・・・これから「阿波座」に向かいます。