外伝③(「覚書」)
・・・東京アートの「メッカ」は「上野」、「河鍋暁斎」の墓があり、行く予定にしていたのですが、時間がなくあきらめました、心残りです。「暁斎」は、それ以前「狂斎」としており後「暁」に改め、「画鬼」と呼ばれました。「画狂・北斎」との接点や共通点について、調べてみました。
★特別展「北斎と暁斎―奇想の漫画」於:太田記念美術館
150-0001東京都渋谷区神宮前1-10-10/03-3403-0880
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/annai.html
2013年4月27日(土)~6月26日(水)
【参考】「すみだ北斎美術館」130-0014東京都墨田区亀沢2丁目7番
★2015年8月11日/3階床コンクリートを打設しました。地上から約10mほどの高さにまで達しました。平成27年度竣工予定。
・・・楽しみですね。
★【河鍋暁斎】(1831~1889)
●下総国古河石町(現茨城県古河市)生まれ。天保3年(1832)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷「お茶の水」の火消し屋敷(★現本郷3丁目)に一家は揃って住み、甲斐姓を名乗る。幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。天保4年(1833)、母につれられ館林の親類に行き、初めて周三郎は「蛙」の写生をした。
●天保8年(1837)浮世絵師★「歌川国芳」に入門。
●天保11年(1840)国芳の素行を心配した父により狩野派絵師★「前村洞和」に再入門。洞和は暁斎の画才を愛し、★「画鬼」と呼んだという。
●明治17年(1884)狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野宗家の★狩野永悳に入門し、★「駿河台狩野家」を継承した。
【参考】7代狩野洞白陳信(福岡市博物館アーカイブスより)
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/435/
1841(天保12)駿河台狩野家を継ぐ。平面芸術に優れ、同じ駿河台狩野派の★「前村洞和」と共に多くの弟子、門人をもうけ画法を伝授した。弟子に★「河鍋暁斎」などがいる。
【駿河台狩野家】★千代田区九段北一丁目付近
「奥絵師」の下にはこれを助ける「表絵師」がいた。狩野の分家や門人の家系で、探幽の養子洞雲益信に始まる駿河台狩野家をはじめとする15家があり、禄高は二十人扶持以下の御家人格で、帯刀は許されず一代限りをたてまえとしていた。さらにこの下に民間で画業を営む町狩野と呼ばれる狩野派門人の画家たちがいた。
・・・むむむ、ややこしい。
★狩野洞雲益信(1625~1694)2代狩野洞春義信(~1724)3代狩野元仙方信(1685~1751)4代狩野洞春美信(1747~1797)5代狩野洞白愛信(1772~1821)6代狩野洞益春信(~1841)7代狩野洞白陳信(~)8代狩野洞春陽信(~)狩野洞春秀信(~1884)
・・・幼少の頃から「出世魚」のように名前が変わるし、「勘当」「養子縁組」があったり、「名号」「襲名」等々、さらには勝手に「後継」したりということもあったようです。
【参考】
日本では、親子代々継承する名前の一字を「通字」と言う。これに対し、主君や高貴な人からもらう名前の一字を「偏諱(片諱)かたいみな)」と言う。雅号(がごう)は、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のこと。習い事等においては、師匠につけてもらう、師匠から一字をもらう、技術段階(段位等)によって決まった字を用いる――といった制約がある場合もある。★技術段階(段位等)によって雅号を改めることが多い。江戸時代までは、個人の名前は姓と諱、名字と通称、さらには字など、★複数の名前を一人が持つことが認められてきた。しかし、明治時代になると氏名が★戸籍に記録され、それ以外の名前を持つことは禁じられた。
・・・すなわち、今回ウロウロした「御茶ノ水」界隈に「駿河台狩野家」があり「河鍋暁斎」たちがウロウロしていたということになるのです。難しいことは抜きにして、感無量。
★【葛飾北斎】宝暦10年(1760)~嘉永2年(1849)
●武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。★現東京都墨田区の一角)生まれ。明和元年(1764)幼くして、幕府御用達★鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、★貸本屋の丁稚、★木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。
●安永7年(1778)浮世絵師★「勝川春章」の門下となる。
●6年(1794)勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて★「狩野融川」に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。
【狩野融川】
★浜町狩野家五世。狩野昆信の子。名は寛信、初め友川、のち青梧斎と号する。文化5年法眼に叙せられ式部卿と称する。画を父に学び、文学を好み、詩を能くする。和歌は橘千蔭に学ぶ。文化12年(1815)歿、38才。
【参考】「北斎と幽霊」著:国枝史郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43563_17048.html
●『富嶽三十六景』の初版は文政6年(1823)に制作が始まり、天保2年(1831)に開版、同4年(1833)に完結する。天保5年(1834)★「画狂老人」「卍」の号を用いる。『富嶽百景』を手がける。
・・・この頃、「河鍋暁斎」が生まれています。生まれた時から「テレビ」があったごとく「画狂・北斎」の存在は当たり前だったでしょう。しかしながら、そのことよりも意識せざるを得ない「江戸」から「明治」への大きな★変動期に「画鬼・暁斎」は生きたのです、スゴイ。