◆【東京ステーションギャラリー】◆(2012年10月1日開館)
東京ステーションギャラリーは1988年、駅を単なる通過点ではなく、香り高い文化の場として皆さまに提供したいという願いを込めて、東京駅丸の内駅舎内に誕生しました。東京駅の歴史を体現する★煉瓦壁の展示室をもつ美術館として親しまれ、開館以来18年間にわたり、105本のさまざまなジャンルの展覧会を開催、延べ約235万人の来館者をお迎えしました。2006年、東京駅の復原工事に伴い一時休館をいたしましたが、その間も旧新橋停車場鉄道歴史展示室などで館外活動を続けてまいりました。そして、2012年秋、復原工事を終えた駅舎内にて、さらに時代に即し、進化したかたちで6年半ぶりに新しいスタートを切ることになりました。東京駅丸の内駅舎が、★辰野金吾の設計によって創建されたのは、1914(大正3)年のことです。東京駅は、日本の鉄道の上りと下りの基点であり、多くの幹線の0キロポストが設置された「中央駅」として位置づけられています。また、日本の近代史の舞台として、目撃者として、幾多の激動の時代をくぐりぬけてきました。地理的・歴史的に近現代日本の中核に位置し、重要文化財でもある東京駅舎にて美術館活動を行うことの意義を深く認識しつつ、今後の活動を続けてまいります。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/
●北陸新幹線開業記念・交流するやきもの「九谷焼の系譜と展開」
2015年8月1日(土)~9月6日(日)
本年は、九谷の地に窯が開かれてから360年目の年にあたります。東京ステーションギャラリーでは、北陸新幹線開業を記念して、九谷焼の歴史をたどり、その展開を検証する展覧会を開催いたします。華やかで深みのある色絵磁器を大きな特徴とする九谷焼ですが、その歴史の中では、さまざまな試みが行われ、多様な表現が生み出されてきました。それに大きな刺激を与えたのが、九谷の地を訪れた作家たちや、各地の窯場との交流です。本展では、「交流」という言葉をキイ・ワードに、江戸初期の古九谷から、江戸後期の再興九谷、明治期の輸出陶磁、近代九谷の諸相、そして現代の作家まで、生活の中に息づき、時代の中で豊かな表現を創造してきた九谷焼の、多彩で魅力的な作品世界をご紹介します。
【東京駅丸の内駅舎保存復原プロジェクト】
http://www.jred.co.jp/column-1.htm
「赤レンガ駅舎」として親しまれている東京駅丸の内駅舎は、明治の大建築家★辰野金吾の設計により1914年に竣工した他に例を見ない大規模な鉄骨煉瓦造である。関東大震災でも大きな被害を受けなかったが、1945年の★戦災で外壁、屋根及び内装が損壊した。戦後、3階建てを2階建てにし、屋根形状を変更するなど応急的な復興工事が行われ、その姿のまま現在に至っている。
1970年代後半からは保存を求めるさまざまな動きが見られたが、2000年に創設された特例容積制度により基本的条件が整い、2003年に国の★重要文化財に指定されたことで保存復原が決定的となった。丸の内駅舎は単なる文化財ではなく、創建以来90年以上にわたり使い続けられている現役の建築物である。歴史的建築物の安全性・機能性の向上を図りながら、長い将来にわたっての恒久的な保存・活用を実現することが当プロジェクトの目的である。
丸の内駅舎の保存復原は、日本における重要文化財の保存活用にとって新たな時代を切り開くパイオニアとしての役割が期待されている。特に活用に伴う十分な安全性確保のために免震工法を採用し、それによって既存躯体を極力活用しつつ新たな補強を軽減できたことは、文化財の価値を守る上でもきわめて重要なポイントであった。
東京丸の内地区では歴史的な蓄積を生かしながら、商業機能の充実など、首都の中心にふさわしい風格ある都市形成が進められている。その中でも国の重要文化財に指定された丸の内駅舎は中心的かつ象徴的役割を担っている。これを創建当時の姿に復原するとともに機能を充実させることにより、将来にわたって魅力的であり続ける、首都東京の顔づくりを行う。
・・・やっぱり「赤丸ポスト」が似合いますよねえ。
【辰野金吾】
東京駅を設計した辰野金吾は、嘉永7年(1854)8月22日に今の佐賀県唐津市で生まれました。明治3年、17歳の時に藩の英語学校に入学。教師は高橋是清で、同級生に曾彌達蔵がいました。明治5年に高橋是清が帰京すると曾彌も辰野も相次いで上京します。徒歩と船を乗り継ぎ、横浜~新橋間は開通したばかりの鉄道を利用、それでも唐津から12日間の長旅でした。
明治6年、20歳の時、工部省工学寮第1回入学試験に辛くも合格。工学寮は赤坂葵町旧川越藩邸大和屋敷(現ホテルオークラ)に置かれ、のち虎ノ門(現霞ヶ関ビル)に煉瓦造の校舎を新築して移転します。工学寮は新時代の人材を養成するため、すべて官費でまかなわれ、何もかもが純英国式でした。辰野は教養課程終了後、造船志望をやめて造家科(建築科)に進みます。同級生は宮伝次郎(病死)、曾彌達蔵、片山東熊、佐立七次郎ら5名でしたが、辰野は目立たない学生だったようです。明治10年、工学寮は工部大学校と改称、25歳の★ジョサイア・コンドルが教授として着任すると、構造や材料学中心の講義にデザインなどが加えられ、芸術教育へと転換していきます。明治12年11月、26歳で工部大学校を首席で卒業しますが、首席卒業者は官費留学が約束されていました。それは帰国後、給料の高いお雇い外国人に替わって後進の指導にあたることを期待されていたのです。
明治13年2月8日、留学生たちはロンドンに向け横浜港を出帆。化学、土木(鉄道・灯台)電信、機械、造船、紡績、冶金、鉱山、造家など工部大学校の各科の首席卒業生ばかり総勢10名で、辰野金吾も大きな期待をになって出発します。ロンドンに着くと、ロンドン大学の建築過程および美術過程で学ぶ傍ら、キューピッド建築会社に5ヶ月、ついで建築家ウイリアム・バージェスの事務所の研修生として建築の実務を学びます。明治15年にロンドンを発ちフランス、イタリアをまわって帰国したのは明治16年5月下旬のことでした。
留学から帰国した辰野金吾は建築設計と教育の両面で華々しい活躍をします。明治17年12月にジョサイア・コンドルの後任として工部大学校教授に就任、明治19年、33歳の時には銀座に辰野建築事務所を開設します。辰野金吾は建築家として日本銀行と中央停車場と国会議事堂の3つの建築設計をしたいと語ったと伝えられていますが、明治21年、日本銀行本店の設計者に決定し、調査のため2度目の外遊をします。日本銀行が竣工するのは明治29年3月22日で、以来、辰野家ではこの日を特別な記念日として無礼講が催されたそうです。明治35年末で工科大学教授を辞任すると、翌年、50歳で辰野葛西事務所を東京銀座に開設、明治38年には大阪に辰野片岡事務所を置き、日銀の各支店をはじめ全国規模で建築設計の仕事を展開します。中央停車場の設計を依頼されたのは明治36年、設計が本格化したのは39年頃で、設計が終わらないうちに明治41年に着工し、大正3年に竣工します。国会議事堂は、コンペの第一次審査までかかわったものの、大正8年3月25日に赤坂新坂町の自宅で息をひきとります。享年66歳でした。辰野金吾は東京、大阪に建築事務所を持ち、多くの建築作品を残しますが、時代のニーズに対応するために組織を整えて精力的に仕事を受注し、同時に多くの建築実務者を育てたといえましょう。
・・・「八重洲口」は現代の顔、ですね。