・・・国宝「慈眼院多宝塔(泉佐野市)」・国宝「観心寺金堂(河内長野市)」に続いて、国宝「住吉大社第一殿~第四殿(大阪市)」を観に行きましょう。
◆「住吉大社」
558-0045大阪市住吉区住吉2-9-89/06-6672-0753
古くは摂津国(大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名)の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。住吉大社は、昔から20年ごとに本殿を新しく建て替える遷宮を行っています。古く由緒のある神社、たとえば伊勢神宮や香取・鹿島・賀茂社などでも同様に、数十年単位で御本殿を新築していくことが伝統でした。近世に入ると、住吉大社では本殿の修繕・改修とともに、お祭を行うようになりました。本殿の改修では、特に丹塗りや桧皮葺が重要で、ヒノキの樹皮を加工した桧皮で屋根を葺きます。今回の第49回式年遷宮は平成20年~21年にかけて斎行され、国宝社殿の塗替をはじめ、諸建造物の修理を行い、境内の整備をいたしました。
住吉大神は伊邪那岐命の★禊祓(みそぎはらい)の際にご出現されたので、神道でもっとも大事な「祓(はらえ)」を司る神です。住吉大社の夏祭り「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれ、大阪はもとより摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いする意義があるほど、古くより「祓の神」として篤い崇敬を受けてきました。住吉大神は★海中よりご出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな神として崇敬されてきました。奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。「住吉に斎く祝(はふり)が神言と行くとも来とも船は早けん」(万葉集)と詠まれるこの歌は、住吉大神の言葉として、遣唐使に対し無事の帰還を約束した神のお告げを伝えたものです。このような海上安全の守護としての信仰は、江戸時代、海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がり、現在境内にある約600基の石燈籠の多くは、運送船業の関係者から奉納されたものです。
住吉大神が草を敷かずに★苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。古い時代の農耕は当時の産業を代表するものでしたから、住吉大神は「産業の神」と申し上げてもよろしいわけで、現在は農業関係者のみならず、商業・工業関係者からも深く信仰されております。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われておりますが、第四本宮ご祭神、神功皇后が長門国(現在の山口県)から植女(うえめ)を呼び、御田を作り五穀豊穣を祈られたことが始まりといわれています。
211神功皇后、住吉大神を住吉の地に鎮斎(帝王編年記)313仁徳天皇、難波高津宮に都を定め、この頃に住吉津が定められる(日本書紀)405鷲住王、住吉邑に居住の記事 (日本書紀)749住吉社造営記事の初見 (興福寺略年代記)758孝謙天皇、住吉大神の霊告によって★住吉「神宮寺」を創建(住吉勘文)812神祇官より、住吉・香取・鹿島三社は二十年を隔てて皆改造すべき旨あり901津守寺の建立か(住吉神社文書・墨江紀略)1873神仏分離にともない★「神宮寺」の伽藍が取り壊される。
【津守王子跡】
熊野古道に面した墨江小学校の敷地内にあったと伝わる。★「津守廃寺跡」の説明板がある。ここに「新宮社」があった。また南朝後村上天皇崩御の住吉行宮跡も近い。津守王子は、紀行文に阿倍野王子と境王子の間に時々登場する。この王子社については、津守寺南門前に若一王子祠があり熊野若一王子を祀っていたとある。九十九王子の一として『摂津名所図会』にも記されているが、現在はない。『墨江村誌』『住吉村誌』は、明治初年に住吉大社摂社になっている「船玉神社」の傍らに遷したとの記載があるが、現在はその周辺には見あたらない。また、住吉大社の摂社に★新宮社「伊邪那美命、事解男命、速玉男命」があり、この社に引き継がれているようにも見える。また「止々呂岐比売神社」に合祀されたとも言う。
【止止呂支比売命神社】大阪市住吉区沢之町1-10-4
創建年代は不明。しかし、延喜式にはその名の記載がある。社名のトドロキとは当時の境内にあった橋の名前。承久3年(1221)後鳥羽天皇が、当社境内松林内に行宮を立てて以降、若松宮あるいは若松神社と言われる。それ以前は、住吉大社の摂社(奥の院)とされていた。
・・・これまで「竹内街道」そして「高野街道」を巡ってきましたので、「熊野街道」も走破しなくては、と考えています。