大丸(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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★新テーマ「建築探遊」について

・・・【探遊】という言葉があるだろうと思って調べてみましたが、どうやら「造語」のようです。「遊」の意味については「理屈」は必要ないので「探」について、

1奥深くさぐりを入れる。「探求・探究・探検・探査・探索・探知・探偵・探訪/内探」

2景色などを見にたずねていく。「探春・探勝・探梅」

[難読]探湯 (くかたち) 


・・・そう言えば「探幽」という絵描きがいましたね。


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狩野探幽(16021674)

江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。

【参考】酬恩庵一休寺

610-0341京都府京田辺市薪里ノ内1020774-62-0193

http://www.ikkyuji.org/

京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は霊瑞山。一般的には一休寺と称されます。寺の前身は鎌倉後期の正応年間(1288~93)、南浦紹明大應国師が中国で禅を学んで帰り、ここに妙勝寺を建立したのが始まりです。その後、永享年間(1429~40)、室町幕府六代足利義教の帰依により本堂が建てられました。元弘の乱の兵火により荒廃・衰退したが、室町時代の康正2年(1456)、六代の法孫に当たる一休宗純(そうじゅん)禅師が宗祖を慕って堂宇を中興しました。師恩に報いる意味で「酬恩庵」と名付けられました。さらに、文明7年(1475)の一休禅師74歳の時、応仁の乱の戦火を避けるため、東山の麓にあった虎丘庵(こきゅうあん)をここへ移築しました。一休禅師は晩年この虎丘庵で過ごし、81歳で大徳寺(北区)の住職となっても、大徳寺に住まずこの寺から輿にのり通っていたと言われています。一休禅師没後衰退していた方丈は、1650年(慶安3年)加賀藩・三代目藩主、前田利常の寄付によって再建されました。方丈障壁画は当時、数々の国家的プロジェクトを手掛けていた狩野派の巨匠狩野探幽が49歳のときに手掛けたものです。

・・・近々、行ってみようかと思っているところです。ついでに「幽」も調べました。

【幽】

1暗くて見えない。かすか。「幽暗・幽明」

2奥深い。「幽遠・幽艶 (ゆうえん) ・幽玄・幽邃 (ゆうすい) 」

3世間から離れてひっそりしている。「幽居・幽境・幽棲 (ゆうせい) /清幽」

4人を閉じ込める。「幽囚・幽閉」

5死者の世界。「幽界・幽霊」

【幽玄】

1物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。「―の美」「―な(の)世界」

2趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。

「詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは―の道、君臣これを重くす」〈徒然・一二二〉

3気品があり、優雅なこと。また、そのさま。

「内裏の御ことは―にてやさやさとのみ思ひならへる人の云なるべし」〈愚管抄・四〉

4中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の文学・芸能の美的理念の一。言葉に表れない、深くほのかな余情の美をいう。

㋐和歌では、言外に感じられる王朝的な上品で優しくもの柔らかな情趣をいう。

㋑連歌では、艶でほのかな、言葉に表されない感覚的な境地をさしていう。後に、ものさびた閑寂な余情をもいうようになった。

㋒能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をもいうようになった。

・・・「遊」と「幽」、まあまあそんな気分で観て回ろうということで【建築探遊】始めます。多分に「寄り道(道草)・脇道・裏道」に迷い込みますので、よろしく。まずは心斎橋「大丸」から始めたいと思います。


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大丸(1)

NEWS2014.5.17産経WEST

大阪・ミナミのランドマーク大丸心斎橋店の建て替え検討

大阪市の繁華街、ミナミのシンボルの一つである大丸心斎橋店(中央区)の建て替えが検討されている。完成から80年以上が経過したことに加え、大型商業施設の新設や改装が相次ぐ市内でミナミに出遅れ感があるためだ。大丸松坂屋百貨店を傘下に持つJ・フロントリテイリングは今後3年かけて同店を含む心斎橋地区の再開発計画をまとめる方針だが、早くも関係者の注目を集めている。

大阪市内では商業施設の競争が激化する一方だ。梅田を中心とするキタでは一昨年秋に阪急百貨店梅田本店(北区)が増床開業し、昨春はグランフロント大阪(同区)も開業。阿倍野・天王寺地区では今春、あべのハルカス(阿倍野区)が全面開業した。

一方、心斎橋を中心とするミナミは近年、再開発案件が少なく「存在感が薄まっている」(関係者)。キタなどへの顧客流出の懸念も強まっており、大丸松坂屋内には「大丸心斎橋店だけで人が呼べる時代ではない」との危機感がある。

こうした中、J・フロントは心斎橋地区の再開発に乗り出すことを決めた。大阪市のメーンストリート、御堂筋に面した大丸心斎橋店を中心に、周辺で保有・運営する不動産、商業施設、地下街を含めて再開発する。

大丸松坂屋の好本達也社長は、「心斎橋店本館の建て替えを含め検討したい」と話す。J・フロントは東京の銀座や上野の再開発計画も抱えており、「両案件をしっかりと進めた上で」(担当者)平成28年度までに具体的な内容を固める考えだ。

同社は、大丸心斎橋店の建物をどうするかは「白紙の状況」だとしているが、歴史ある店舗だけに流通業界での注目度は高い。

早くも「大丸神戸店がある神戸・旧居留地のように建物などに統一感を持たせる」「お金をかけて大規模にやることになれば、南隣に立地し、完成から約50年になる南館と一体的に建て替える可能性がある」といった見方が浮上している。

建物自体も心斎橋のランドマークとして親しまれていることから、心斎橋筋商店街振興組合の前田雅久事務局長は「個人的な意見だが、現在の雰囲気を残してもらえれば」と話す。

伝統建築を保存する場合は、そのまま残すほか、元の建物の外壁だけを低層部に生かし高層化するなどの方法もある。昨年建て替えられた大阪・中之島のダイビル本館(大阪市北区)では、旧ビル外壁のれんがなどを再利用することで、低層部の外観を復元した。

御堂筋のうち北側になる淀屋橋-本町間には建物の高さ規制があり、同店のある南側でも「つられて低い建物が並んだ」(大阪市の関係者)経緯がある。同市はことし3月に大幅に規制を緩和しており、大丸心斎橋店周辺でも高層化が進む可能性が指摘されている。

「心斎橋の顔」ともいえる大丸心斎橋店はどう変わるのか-。ミナミ再浮揚への期待もあいまって注目が集まっている。

大丸心斎橋店本館 米国出身の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作で、昭和8年に完成した。大阪でも指折りの近代建築として親しまれている。ネオ・ゴシック様式を基調にアールデコの装飾を施し、重厚ながらも華やかな雰囲気が特長だが、一方で老朽化も指摘されてきた。


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J.フロント リテイリング株式会社2015.7.18

本日、一部の報道機関において、当社子会社の株式会社大丸松坂屋百貨店の大丸心斎橋

店本館に関する報道がなされておりますが、これは当社又は同社が正式に発表したもので

はありません。当社が大丸心斎橋店(本館、北館、南館)を中心とする心斎橋地区再開発について検討を進めていることは事実ですが、現時点において何ら決定した事実はございません。今後開示すべき事実を決定した場合には、速やかにお知らせいたします。

NEWS2015.7.18産経WEST

ヴォーリズ設計「心斎橋大丸」建て替えへ…築80年の外観生かし、平成31年オープンめざ

J・フロントリテイリングが、傘下の大丸松坂屋百貨店の旗艦店である大丸心斎橋店(大阪市中央区)の大規模リニューアルに乗り出すことが18日、分かった。完成から80年以上が経過した本館は平成28年から3年程度かけて建て替え、南館は訪日外国人客に対応した売り場に改装する。投資額は300億円規模とみられる。同店を中心に、周辺で保有・運営する不動産や商業施設なども再開発する方針で、大型商業施設の新設や改装が相次ぐ大阪市内で集客力を高める。

本館は老朽化が進んでいることなどから、J・フロントが建て替えを検討していた。年内にいったん営業をやめ、来年から建て替え工事に入るもようで、リニューアルオープンは31年になる見通しだ。

ただ、本館は米国出身の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した歴史ある建物で、建築関係者らからは保存を求める声が出ていたため、J・フロントは外観を生かす形で建て替える方向だ。一方、南館は営業しながら順次改装し、急増する訪日客向けの売り場とする。

大阪市内では24年秋以降、梅田を中心とするキタで阪急百貨店梅田本店が増床開業し、複合ビルのグランフロント大阪も開業。阿倍野・天王寺地区ではあべのハルカスが全面開業するなど商業施設の競争が激化。大丸心斎橋店のあるミナミは「存在感が薄まっている」(関係者)との指摘もあった。


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NEWS2015.7.22Jタウンネット大阪府

心斎橋の象徴「大丸」建て替え、築80年の名建築の行方は...外観は残る?内装は?

百貨店の建て替えが相次ぐ大阪市で、また一つ、大正モダン建築の傑作が再開発されることになりそうだ。2015年7月18日の朝日新聞をはじめとする複数の新聞は、大丸心斎橋店の本館(大阪市中央区)が年内で営業をやめ、建て替えた後2019年に新装オープンすると報じている。親会社のJ.フロントリテイリング(JFR)は「これは当社又は同社(編集部注:大丸松坂百貨店)が正式に発表したものではありません」と発表したものの、「2014~2016年度中期経営計画」の中で心斎橋地区再開発について次のように言及している。



「大型商業施設のオーバーストア化で競合が激化する大阪地区での競争力を抜本的に強化するため、大丸心斎橋店(本館、北館、南館)を中心に周辺の不動産・商業施設活用を含めた心斎橋地区再開発計画の具体化を進めます」


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現建物が竣工したのは今から80年以上前のこと。米国人で後に日本に帰化した建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって設計された。彼は関西学院大学時計台をはじめ1600以上の作品を残したが、その中でも名建築に位置づけられている。ところで、同じ大正モダン建築の傑作である船場ビルディングでは現在、「心斎橋大丸原図展ヴォーリズと佐藤久勝」が開催されている。展覧会に訪れた人のツイートによると、1945年の空襲で失われた部分の図面や写真も展示されているという。新聞各紙によると、外観の意匠は残す方針という。御堂筋の沿道ビルは現在、最高60メートルまでと定められている(低層部は50メートル)。しかし、規制緩和された一部の地区では最高約200メートルまで建てられる。東京駅前のJPタワーや丸の内ビルディングのような、超高層ビル+昔の壁というスタイルになるかどうかは不明だが、大丸心斎橋店の真髄は内装にある。インバウンドで一息ついている店もあるが、百貨店業界は長年構造不況に苦しんでいる。大丸は早い段階から改革に取り組み、業界トップの利益率を確保している。大丸心斎橋店は2009年、隣の旧そごう心斎橋店の建物を買収して北館とした。そごうは西武百貨店と経営統合し、現在はセブン&アイ・ホールディングスの傘下にある。もし改革に遅れをとっていたら、大丸が同様の立場に置かれていた可能性だってある。ビルは老朽化が目立ち、天井も低く圧迫感があるという指摘もある。建て直しは避けられないにしても、ヴォーリズが残した意匠の素晴らしさをどこまで残すのか、大阪市民の多くが注目している。