紡績・赤煉瓦建築(35) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆「休暇村・紀州加太」

640-0102和歌山県和歌山市深山483073-459-0321

http://www.qkamura.or.jp/kada/

天気の良い日は、淡路島はもちろん四国まで見渡せます。茜色に染まる夕暮れは絵画のようです。


かた1


【参考】海防要塞と灯台を訪ねて

http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/500700/kinokawa/course/course01/course1.html

四方を海に囲まれた日本が、江戸時代の長い鎖国を解き、富国強兵を目指して世界へ 門を開けた明治時代の海防施設の名残りです。今は観光客や釣り人で賑わう加太や友ヶ島にも、そんな時代があったことが洋式の古い砲台群や灯台にしのばれます。


かた2


●加太・深山地区砲台群

淡路島を含む「由良要塞」の一部で、加太地区には加太砲台・田倉崎砲台があ り、加太新出地区の丘陵部にある「加太少年自然の家」公園内に諸遺構が残っている。深山地区には、山頂部に深山第一・第二砲台が、海浜部の男良谷(おらのたに)には第三砲台が配備されていた。第二砲台跡近くには、国民休暇村の宿泊設備があり、左翼観測所跡の展望台からは友ヶ島・淡路島を含む紀淡海峡の素晴 らしい眺めを楽しむことができる。

●友ケ島砲台群

友ヶ島砲台は、淡路島の由良地区、和歌山の加太・深山地区、淡路島の西岸の鳴 門要塞と一体となる「由良要塞」の一部である。同要塞は明治22年(1889)から建設が開始され、東京湾・下関の両要塞と同様に一等要塞に指定されてい た。カノン砲と榴弾砲(りゅうだんほう)がそれぞれ射界を重ね合わせ死角をなくすよう配備されていた。友ヶ島第1砲台~第5砲台、虎島堡塁(とらしまほうるい)の5砲台1堡塁から成っており、中でも第3砲台は由良要塞最大級の砲台である


かた3


・・・「戦争遺跡」つながりとして、「砲兵工廠」を紹介しておきます。

大阪砲兵工廠

明治維新後、陸軍建設をおこなった兵部大輔大村益次郎の建言により設置が決まった。1870年3月4日(明治3年2月3日)、幕府の長崎製鉄所の機械および技術者、職工を移設して兵部省直営の大阪造兵司が新設された。同年4月13日(旧暦)に大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁として事務を開始した。大阪造兵司は陸軍省の発足とともに、1872年4月15日(明治5年3月8日)大砲製造所と呼ばれた。さらに1875年(明治8年)2月8日の組織改正で砲兵第二方面内砲兵支廠(東京は第一方面内本廠)と改称された。1879年(明治12年)、砲兵工廠条例の制定に伴って10月10日陸軍省達乙七四号より大阪砲兵工廠となり1923年(大正12年)4月1日より施行された陸軍造兵廠令によって陸軍造兵廠大阪工廠と改称されるまで、単に「砲兵工廠」の名で大阪市民に呼びならわされた。太平洋戦争の敗戦まで、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場であった。また、戦前中の日本では重工業分野においてトップクラスの技術や設備を持っていたため、官公庁や民間の要望に応えて兵器以外のさまざまな金属製品も製造していた。大阪陸軍造兵廠とも呼ばれる。東京の靖国神社にある青銅製の第二鳥居は、1887年(明治20)に大阪砲兵工廠で鋳造されたものであり、現存の靖国神社の全基の鳥居の内では最も古く、また青銅製の鳥居として日本一の大きさを誇っている。日本で初めて製造された鋳鉄管を用いた大坂城天守閣南西側の内堀に架かる水道管(現存)は、大阪砲兵工廠で製造されたものである。


かた4


1919旧大阪砲兵工廠化学分析場」/大阪市中央区大阪城3-30

弾薬や化学兵器の開発に使われていたと思われます。戦後、自衛隊の大阪地方連絡所の本部でした。ネオ・ルネサンス様式の煉瓦造。地上2階建、地下1階。設計は大正から昭和初期に関西で活躍した建築家置塩章で、公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んで用いました。当時は砲兵工廠建築部にいました。現存する主な作品は、旧尼崎警察署(1926)、旧神戸移住教養所(1928、旧神戸移住センター)、旧兵庫県信用組合連合会事務所(1929、駐神戸大韓民国総領事館)、茨城県庁舎(1930)、旧鳥取県立図書館(1930、わらべ館)、宮崎県庁舎(1931)、旧国立生糸検査所(1932)、加古川市公会堂(1935、加古川市立図書館)などです。


かた5


・・・戦後70年、私も「戦争を知らない子ども」ですが、このような「戦争遺跡」を通して、少しは「感じる」ことができます。ぜひ、今後も保存されることを期待します。