・・・「堺市役所」の展望ロビーに上ったことがなかったので、行ってみました。
◆「堺市役所」
590-0078堺市堺区南瓦町3-1/072-233-1101
古代には仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群が築造され、中世には海外交易の拠点として「自由・自治都市」を形成し、わが国の経済、文化の中心地として繁栄してきました。戦後、臨海コンビナートと泉北ニュータウンの造成により、現在の姿に。84万人の人口を有する政令指定都市・堺は、南大阪の中核的都市として、関西の文化・経済を牽引しています。
【大小路筋】
http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=39
市役所から南海本線堺駅までの1.5kmの堺のシンボルロード。広い歩道幅と噴水のモニュメントは市民のプロムナードとして親しまれ、10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わいます。電線を地下の共同溝に収納しています。歩道幅を広げ★噴水のモニュメント「和の構造-1」、「和の構造-2」を設置し市民のプロムナードとして親しまれています。
【堺・アートクルーズ】
http://sac.sakai.ed.jp/index.html
■1990「三つの波形」作:建畠覚造(1919~2006)
http://sac.sakai.ed.jp/details/1/study.html
作品は市章のデザインをもとに、新しい時代の波の中で大阪圏の中核都市として躍動・発展)する堺をイメージしたものです。(ご自由に腰をおかけ下さい)
【フェニックス通り】(宿院通り、宿院大通)
1945年(昭和20)の堺大空襲により沿道は壊滅的な被害を受けたが、戦災復興計画によって防災に主眼を置いた幅員50mの大通りへ拡幅される運びとなった。1955年(昭和30)には全線開通し、翌1956年(昭和31)3月に復興の象徴としてフェニックスの苗木126本が植樹され、街路樹の成長に合わせて「フェニックス通り」の愛称が定着するようになった。1970年(昭和45)頃から大阪中央環状線や第二阪和国道が建設され、堺市街の東西幹線としての地位が向上した。希望と誇りを失わずに不死鳥のように躍進し続ける堺市民のシンボル。その意味から、手塚治虫さんの「火の鳥」と堺市のシンボルである「フェニックス」をイメージしてタペストリーを製作、堺市役所に飾っています。真ん中の「からくり時計」は故人の寄付金2千万円を基に設置したものです。
■「Cycle90°-1」作:松本薫(1952~)
http://sac.sakai.ed.jp/details/13/study.html
電気モーターで動く仕掛けのある彫刻(キネティック・アート)。動くことによって、時々刻々と、また見る角度によってもその形の見え方が次々に変わってゆく面白さがあるのがこの作家の作品の特徴である。
★堺市役所21階展望ロビー
http://www.sakai-tcb.or.jp/spot/spot.php?id=73
地上80mから360度の展望が楽しめる回廊式ロビー。仁徳天皇陵古墳など歴史を秘めた堺のまちが眼下に広がり、遠く六甲山、関西国際空港、生駒・金剛山、大阪城が見渡せる人気スポットです。ゆっくりくつろげる喫茶コーナーもあります。年中無休
【大小路橋】
1615年の大坂の陣で堺市街地は一度灰燼に帰したが、元和の町割によって、大小路は堺市街地の東西方向(横筋)の基幹道路として5間幅の直線道路に再整備された。東端の★土居川(現在は埋立。阪神高速15号堺線)に架かる★大小路橋には高札場が設けられ、竹内街道や西高野街道と接続する堺の東玄関となった。かつては、南北方向(縦筋)の基幹道路である大道筋(紀州街道)との交点付近において「湯屋町」「市之町」の地名が見られ、風呂屋や市場があったと推測される。また、「北大小路町」「南大小路町」「北向井領町」「南向井領町」といった大小路に面した東西方向の町割もあった。なお、1872年以降は北側が「熊野町」、南側が「市之町」に統一されている。大道筋の一筋東の東六間筋と大小路の交点は古くから清明辻と呼ばれるが、案内板には大道筋と大小路の交点とある。
【堺市立熊野小学校】590-0946堺市堺区熊野町東5-1-49
現在「熊野」の読み方は、校名が音読み「ゆや」、町名が訓読み「くまの」と異なっている。町名も当初は「ゆや」と読まれていたが、後に「くまの」と読まれるようになった。ただし、現在でも「ゆや」と読まれることがあり、年配者において顕著である。現在の町名「熊野」は、1872年に以前の町名「湯屋」から改称されたものである。「湯屋」に関しては、湯屋(風呂屋)が多かったとする説、菅原神社で塩風呂の炊き出しが行われたとする説、「熊野」の当て字とする説などがある。「熊野」は、大小路交差点北東角にあった熊野神社(1908年、菅原神社に合祀)に由来する。社名も「ゆや」と読まれてはいたが、当社は熊野参詣の境王子が前身と言われており、当然ながら「湯屋」の表記ではない。
・・・知らないこと、いっぱいありますね。