茶の湯(11) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・作家「宮本輝」さんのミュージアムが「追手門学院大学」にあるというので訪問した時、松下幸之助さんの「茶室」3つ目に出会いました。


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◆「追手門学院大学

567-8502茨木市西安威2-1-15/072-641-9608

http://www.otemon.ac.jp/

※「宮本輝ミュージアム」 http://www.oullib.otemon.ac.jp/teru/

1888年「追手門学院」の創設(大阪 偕行社 附属小学校開学)

追手門学院は、1888年に大阪鎮台の司令官高島鞆之助中将が、今井兼利少将他陸軍将校らの主唱により創設した大阪偕行社附属小学校に端を発する。1940年に偕行社中学校開校、その後終戦に伴って「大阪偕行社学院」は解散し、法人名を「追手門学院」と改め、校名も「追手門学院小学部」「追手門学院中学部」と改めた。1950年に高等学部が開設され、以後は小・中・高の三学部を擁する総合学園として教育活動を行ってきた。追手門学院の名称は、学院の発祥地が大阪城の三の丸跡にあることから、城の表門「追手門(おうてもん)」に由来しています。

1966年「追手門学院大学」の創設

追手門学院大学は、追手門学院創立80周年記念事業の一つとして大学開設が計画された。1964年10月、第3代追手門学院学院長に天野利武氏(初代学長1966.4.1~1978.3.31)が就任し、1966年4月、2学部4学科の追手門学院大学が創立された


おって2


1976年日本文化研修道場(松籟庵)竣工

松下幸之助氏からの拠金をもとに建設され、月裏千家井口海仙氏指導により茶室開きが行われ、松下幸之助氏揮毫の「松籟庵」の扁額が掲げられた。

【三菱地所設計】

http://www.mj-sekkei.com/cgi-bin/works/search.cgi?Mode=Preview&Id=383

追手門学院大学は、大阪北摂の自然豊かな土地にあります。学院の創立120周年と大学創立40周年を記念し、キャンパスの再整備事業が行われてきました。整備を行うに当たり、自然と人の環境を大切に考えられた学院のお考えに基づき、様々な方向から人と環境をテーマとし、学校と設計者が一体となり、取り組んで参りました。

図書館は、耐震性能の向上と利用頻度の向上を目指し、大規模な改修を行い、建物の長寿命化を図っています。新しく「宮本輝ミュージアム」という機能を加え、学外からの利用頻度も増し、活性化が実現しています。また、松下幸之助氏寄贈の茶室「松籟庵」についてもリニューアルを施し、前庭空間を一新することによりキャンパス空間と新しい関係が生まれました。ハードとソフトの長寿命化は、これからの地球に大切な考え方であると実感いたしました。


おって3


【大西東山造園】

http://www.oonishiz.jp/oonishiz.htm

http://www.oonishiz.jp/massyouen.html

庭と文化とその心(著:小口基實)】

松下幸之助翁は、「茶の湯は日本文化の総合である」、「私は死ぬまで毎年各県に茶室を寄贈して死ぬ」と言って、最後に三重県に茶室を建てて没した。茶道理解者で、おそらく最後の事業家茶人として最後の人であろう。茶人でなかったしても後援者であった。

松下幸之助のお茶と真々庵(著:徳田樹彦)】

幸之助が精魂をかたむけた著書『人間を考える』は、昭和47年この真々庵の庭を眺めながら書かれたのだ。「人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することはできない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人びとの知恵が、自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を生かすのである」そのような幸之助思想を具現化したものがまさしくこの庭園だった

「茶道のおもてなしの心でビジネスをしたら粗相はない」と語る松下孝之助(宗晃)さん、そもそも茶道を勧められたの小林一三逸翁)さんです。


おって4


【参考】「神様の女房」著:髙橋誠之介

この屋敷は「光雲荘」と命名された。光雲は、「あんたぐらいになったら、そろそろお茶くらいできんとあかん」という阪急グループの総裁、小林一三のアドバイスで始めた、幸之助の茶室の庵号である。新築披露には、近衛文麿、小林一三などが招待され、裏千家家元が茶室開きを行った。

◆【池田文庫】◆

563-0058池田市栄本町12-1072-751-3185

http://www.hankyu-bunka.or.jp/about/ikedabunko.html

阪急・東宝グループの創業者小林一三(雅号「逸翁(いつおう)」)が、在住の池田に戦後理想的な地方文化事業を創生する夢を描いて、昭和24年(1949)に開館しました。当時、北摂周辺には図書館は一館しかなく、地域住民が切望していた身近な文化施設になりました。そもそも文庫の歴史は、娯楽場であった宝塚新温泉内の図書室に遡ります。一三は、宝塚新温泉の余興として、大正3年(1914)に宝塚少女歌劇(今の宝塚歌劇)の公演を開始し、図書室はその翌年に新設されました。新刊雑誌や近刊の書籍を開架方式で揃えて、読書が楽しめ、読書に厭きれば歌劇を見、一日を過ごせる工夫をしました。昭和7年(1932)、図書室は、演劇資料収集を目指し、宝塚文芸図書館に発展します。演劇に関する図書、雑誌、宝塚歌劇の上演資料、歌舞伎資料を多数集めました。池田文庫は、宝塚文芸図書館の蔵書・資料類を引き継ぎ、その後、宝塚歌劇に関する網羅的収集、阪急電鉄資料を加えて、現在、図書雑誌約22万冊の蔵書を数えます。平成15年(2003)には、民俗芸能資料を加え、特色ある専門図書館となりました。所蔵品の中には、近代化産業遺産認定資料、上方役者絵、歌劇のポスター等、貴重な所蔵品も多数あります。

1911宝塚新温泉開業

1915宝塚新温泉内図書室開設

1932池田文庫の前身宝塚文芸図書館開館

1949池田文庫開館併せて茶室古彩庵を設置

1957小林一三没逸翁美術館開館

1958★「大小庵を小林邸より移築工事開始1959年12月完成

古彩庵(こさいあん)

昭和24年に廃校となった池田商業専修学校の跡地にその古材を利用して作られた四畳半の茶室です。古材にちなんで「古彩庵」と命名されました。現在もここで茶道のお稽古が行われています。(お稽古日以外は貸し出し可、炭火使用不可)

大小庵(だいしょうあん)

昭和35年に小林邸より移築された四畳半台目の茶室。小林一三が「田舎家」と呼び愛用しました。床柱には薬師寺の橋本凝胤師から譲り受けた1500年前の古木が用いられています。小林一三の座右の銘ともいうべき「胆大心小」から名付けられました。扁額は三井高保筆。(貸し出し可、炭火使用可)


おって5


◆【逸翁美術館】◆

563-0058池田市栄本町12-27/072-751-3865

http://www.hankyu-bunka.or.jp/about/itsuo-museum/index.html

小林一三(1873~1957)の雅号「逸翁」を冠して館名とし、1957年、旧邸「雅俗山荘」に開館いたしました。2009年よりは、現在地に新館を建て、お客様をお迎えしております。