かくれ里(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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鹿鷺山笠置寺

619-1303京都府相楽郡笠置町笠置笠置山290743-95-2848

http://www.kasagidera.or.jp/

京都府笠置町は、京都府の南、奈良市柳生に接しています。

http://www3.pref.nara.jp/miryoku/megurunara/inori/syaji/area01/subarea04/kasagidera/


かさき1


笠置は最近キャンプやカヌーなどを楽しむ人で賑わっています。笠置寺は笠置山にあり、山そのものは290mほどです。JR笠置駅から登る道がハイキングコースになっています。車でも登ることが出来ます。山頂近くに駐車場もありますが対向車が来ないことを願いながら進まなければならない細い道です。道の途中に何軒か料理旅館があります。笠置山の信仰は弥生時代まで遡るようです。この山にはたくさんの切り立った花崗岩の巨石・奇石があり全山史跡名勝指定を受けています。

笠置寺は高さ16m、幅15mの大きな岩に刻まれた「弥勒磨崖仏」を御本尊とする真言宗智山派のお寺です。山内には、東大寺のお水取りの起源といわれる正月堂をはじめとして多くのお堂や、巨石が点在する奈良時代からの修行場があります。


二月堂縁起

http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie3.html

実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一万三千七百余座、その名をしるして神名帳を定しに、若狭国に遠敷明神と云う神います。遠敷河を領して魚を取りて遅参す。神、是をなげきいたみて、其をこたりに、道場のほとりに香水を出して奉るべきよしを、懇に和尚にしめし給ひしかば、黒白二の鵜、にはかに岩の中より飛出て、かたはらの樹にゐる。その二の跡より、いみじくたぐひなき甘泉わき出たり。石をたたみて閼伽井とす」とあり、魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えている。「お水取り」は、12日後夜の五体の途中で勤行を中断してはじまる。「お水取り」の行列は灑水器と散杖を携えた咒師が先頭となり、その後に牛玉杖と法螺貝を手にした北二以下五人の練行衆が続く。13日の午前1時過ぎ、南出仕口を出ると咒師童子が抱える咒師松明が行列を先導し、篝火と奏楽の中、堂童子、御幣を捧げ持つ警護役の講社の人たちや、汲んだ水を入れる閼伽桶を運ぶ庄駈士も同道して、「お水取り」の行列はしずしずと石段を下り、途中興成神社で祈りを捧げ、閼伽井屋(若狭井)に至る。「お水取り」の井戸は閼伽井屋という建物の中にあり、当役の者以外は誰も入ることもうかがうことも出来ない。行列が閼伽井屋に到着すると咒師、堂童子等が中に入り水を汲む。これが二荷ずつ、閼伽井屋と二月堂の間を三往復して、お香水が内陣に納められる。「お水取り」が終わると閼伽井屋に下っていた練行衆等は再び行列を組んで二月堂へ戻り、中断していた後夜の「時」が再開される。


かさき2


1300年前東大寺の実忠和尚、そのその師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻されその仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。平安時代永承7年(1052)以後末法思想の流行とともに笠置寺の大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けたのである。鎌倉時代建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開するとき笠置寺は宗教の山信仰の山として全盛を極めた時であった。しかし元弘元年(1331)8月27日倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当寺に迎えたことにより攻防1ケ月ついに笠置山は全山焼亡以後室町時代少々の復興を見たが江戸時代中期より荒廃、ついに明治初年無住の寺となった。明治9年丈英和尚孤狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興につくすこと20年ようやく今日の姿となったのである


かさき3


本堂、正月堂前に立つ本尊弥勒大磨崖仏かつて日本最大最古の天人彫刻として崇められていたといいます。しかし戦火のため、今見られるのは巨大な光背のみです。かつてどんな姿だったのかを残す絵画資料が仁和寺にあるです。正月堂へ行くまでにもいくつもの巨石があり、それに「薬師石仏」「文殊石仏」の名があります。唯一はっきり姿を留めているのがこの虚空蔵磨崖仏です。高さ12m、幅7m。奈良時代後期の作と推定されています。


・・・むむむ、次は「仁和寺」か?


かさき4


・・・まさしく、修行の山であります。


かさき5


・・・ちょうど帰り道、「柳生の里」に行ってみよう。