かくれ里(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大和宇陀神武天皇御聖跡御図絵

https://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/yukari/jinmutennou/seisekizu.html

昭和13年に前貴族院議員津村重舎氏(現在のツムラ創業者)が郷土・宇陀郡の「神武聖跡」を顕彰するために吉田初三郎氏に制作を依頼し、久留島武彦氏、松尾四郎氏の指導のもと、吉田初三郎が完成させたものです。もともとは、合併前の旧大宇陀町の時に、松山町「宇陀信」から寄贈を受けたもので、現在、宇陀市役所市長応接室で収蔵しています。現在、多くの方々にご覧いただくため御図絵の複製版を作成し、庁舎1階介護福祉課前の壁面に展示しています。また、同種の宇陀郡内神武天皇聖跡案内図もあり、そちらは国会図書館に収蔵されています。


かんず1


吉田初三郎(1884~1955)

京都生まれ氏は大正から昭和に活躍した絵地図作者で、独特な鳥瞰図法により多くの絵地図を作り、「大正の広重」ともいわれている。10歳で友禅図案師に奉公し、25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向する。1914年、最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受ける。大正から昭和にかけて日本の観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、大正名所図絵社を設立する。その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を特っていた鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会牡、船会社いった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などであった。高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けた。しかし、第二次世界大戦が進む中、初三郎式鳥瞰図は港湾等の軍事機密が見て取れ、地政学上好ましくないという軍部の判断の下、不遇の時代を送る。戦後、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。

【ツムラ】

https://www.tsumura.co.jp/corporate/history/1893.htm

http://ameblo.jp/tamiyataku1/entry-10593771174.html

津村重舎は★大和国宇陀郡出身で、母の実家「藤村家」(雲雀山青蓮寺の檀家には、中将姫から直接処方の仕方を授けられたという薬が先祖代々伝わっていたという。中将姫は聖武天皇の天平19年(747)、かねて子がなく神仏に願いをかけていた豊成(藤原鎌足の孫)と柴の前(品沢親王の息女)との間に生まれた一女であるという。中将姫が家を出て最初に身を寄せたのが津村重舎の母方の実家・藤村家といわれ、それを契機に交流がはじまり、中将姫は当麻寺で修業していた頃、薬草の知識も学び庶民に施していたが、その処方の仕方を藤村家に伝え、それが藤村家の家伝の薬になったという。津村重舎は1893年(明治26)、23歳の時にこの藤村家に伝わる家伝の薬を「中将湯」という名前で売り出した。津村重舎と聞いてもピントこない方が多いかもしれないが、漢方の津村順天堂(現、株式会社ツムラ)の創業者といえば頷く人もいるだろう。偉人列伝(田宮卓)より


かんず2


・・・1999年に吉田初三郎」の大規模な回顧展を開催した堺市博物館で、またまた企画展が開催されています。

企画展昭和へタイムトリップ吉田初三郎のパノラマ世界=」

月30日(土)~月12日(日)於:堺市博物館

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/index.html

堺市博物館はパノラマの手法で近代の景観を描いた吉田初三郎のパノラマ地図のコレクションを数多く収蔵しています。作品は過去にも特別展で公開し、多くの方に観覧していただきました。昨年は吉田初三郎生誕130年、今年は没後60年にあたります。各地で吉田初三郎のパノラマ地図展が開催されています。当館においても館蔵コレクションを新しい角度から見ることによって、企画展を開催したいと思います。今回は、昭和へタイムトリップをするという視点で企画しました。昭和の景を独特の手法で描いた吉田初三郎のパノラマ世界は、昭和世代には懐かしく、平成生まれには新鮮に映ることでしょう。不思議で懐かしい地図の世界をお楽しみください。また、描かれた景観には台風や大火からたくましく復興をしつつある途上の様子を記録したものもあります。21世紀に生きるわれわれは、そこから何らかの示唆を得ることができるでしょう。

・・・★同種の宇陀郡内神武天皇聖跡案内図」の展示がありました。


かんず3


◆【宇陀市中央公民館】◆

633-2165奈良県宇陀市大宇陀中庄2020745-83-0551

壁画『阿騎野の朝』作中山正實

中山さんがこの作品を制作されたのは、昭和15年(1940)のことでした。しかも、大宇陀町中央公民館に飾るために制作された壁画ではありませんでした。昭和15年は皇紀2600年として記念すべき節目の年、橿原神宮外苑内に記念事業として大和国史館(橿原考古学研の前身)が建設され、同館の万葉室の壁を飾る壁画の制作が中山さんに依頼されました。昭和52年に大和国史館が改築されることになり、昭和57年(1982)2月に壁画が奈良県から旧大宇陀町に寄贈され、現在は中央公民館の所蔵になっているわけです。幅5m、高さ2.5mの壁画柿本人麻呂の歌に画材を得て描かれた大作です。壁画「阿騎野の朝」はあらゆる見地から研究され、服装やその情景が書かれています。壁画の題は、佐佐木博士によって万葉集の「軽皇子の阿騎野に宿りませる時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」の短歌「ひむがしの野に・・・」にもとづいた情景で「阿騎野の朝」と決められました。中山さんは、この壁画の制作には、考証が造形的な要素として重要であると考え、阿騎野の位置、作歌の地点などの地理的考証、軽皇子阿騎野猟の時期、当時の風俗、猟の模様など歴史的考証のほか、自然の情景をよんだ歌として天文学考証を加え、文献実地踏査と科学的実証との幅広い解明を試みられました。この調査の中で、もっとも重要な成果は「かぎろひ」の意味と作歌、すなわち軽皇子阿騎野猟の時期と解明の2点であったといえま。解明への経過は、画法や画材のデータと共に昭和15年秋、中山さんは冊子「壁畫阿騎野の朝」にまとめられました。

ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(巻1-48)

持統天皇6年(692)、草壁皇子の遺児である軽皇子(683-707、後の文武天皇)の一行が、狩を行うためこの地を訪れ、野宿した。軽皇子はまだ10歳の少年だった。一行に同行した宮廷歌人の人麻呂は、狩りの日の朝、払暁の雄大な阿騎野の情景をこの歌に詠みこんだとされている。

中山正実】(1898~1979

洋画家で壁画を専門とし、またカラー銅板画の草分けとして知られる中山正実は、1898(明31)年1月3日神戸市に生れ、1919年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。同年東京商大専攻部に学ぶ傍ら、川端画学校で藤島武二の指導を受けた。1921年第3回帝展に「鉱山の夕」が初入選し、24年に渡欧した。パリでアカデミー・グラン・ショミエールに学び、またルーブル美術館で模写をすすめ、サロン・ドートンヌに入選した。翌年壁画研究のためイタリアに旅行し、サロン・ドートンヌに再入選した。27年帰国し、第8回帝展に「古都礼賛」、以後31年まで毎年帝展出品をつづけた。32年神戸商大の壁画を依嘱され、以来壁画制作に専念し、前後6年を費やして神戸商大附属図書館の大壁画「青春」、及同大学講堂壁画三部作「光明、富士、雄図」を完成した。39年橿原神宮外苑大和国史館の壁画「阿騎野の朝」を制作依嘱され、1940年これを完成、更に41年には神戸裁判所調停会館壁画「正義」「平和」を完成した。そのほか銅板画を制作し、わが国でのカラーエッチングの創始者でもある。19791月7日心不全のため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年81


かんず4


◆「宇陀市阿騎野・人麻呂公園」/633-2164奈良県宇陀市大宇陀拾生76-1

http://www.city.uda.nara.jp/kouen/kyouiku/leisure/kouen/akinohitomaro.html

平成年の発掘調査により、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の時代にわたる遺構が発見されました中ノ庄遺跡で、いにしえの生活の痕跡が残る重要な遺跡として公園整備されています。周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)であったと伝えられています。園内には、故中山正實さんによる壁画「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち、掘立柱建物や竪穴式住居が復元されています。


かんず5


・・・あらゆる考証が、この壁画を構成すべき造形的な要素として必要。見習わなければなりませんね。