茶の湯(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・テレビで「利休、狭く」「チョー、狭いっ」と言ってのける大東建託さんのCMをやっていましたが、このセット利休が創った究極の茶室「待庵」を模しています。「待庵」は客人を苦しめると当時からも言われていたそうです。しかしこれは秀吉のために建てられており、一説によると、秀吉の山崎の陣中に建てられたので、その趣向については秀吉の幼少の田舎家をイメージしたのではという解釈もあります。そんな狭い空間で、利休は秀吉と対座して何を話したのでしょう。CMで使われている茶碗も秀吉が嫌ったという長次郎の黒楽、結構凝ってます。茶道具配置間違いが指摘されていますが、さておいて、ユーモアの世界でも登場する「待庵」は、さすがっす。


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長次郎1589)

安土桃山時代を代表する京都の陶芸家。楽焼の創始者であり、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代とされる。精緻で端正な中国製の天目茶碗などよりも侘びた風情を持つ茶道具を好む利休によって、轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成形を行なう独自の工法が認められ、のち注文によって茶碗を納めるようになる。


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◆「味の兵四郎

福岡県筑紫野市美しが丘北3-1-30120-849-888

https://www.ajino-hyoshiro.co.jp/

福岡「味の兵四郎」、だしや調味料を作っている会社。4年前に友人の家で、「味の兵四郎」のだしパックを使って一度でファンになり、以来、使い続けているのだとか。そんな憧れの「味の兵四郎」の美味の秘密を見られるとあって、大張り切り。市内から車で30分、閑静な住宅街の中に建つ本社。その立派な構えに驚き、三方を切り取った窓から壮大なパノラマビューが望める社長室に通され、さらにびっくり。愛用のだしの産みの親との初対面となった。「創業は宇美町のアパートの一室でした。お隣の方が、袋を破いて炒めごはんにふりかけてチャーハンにしたら、それが抜群においしかったと言うんです。半信半疑で食べさせてもらうと、これがイケる。こんな使い方があったのかと、目からうろこの思いでした」と、懐かしそうに、そのときの驚きを語る。さらに、あごの小骨が口にあたらないようにもう少し細かくするなど、改良を加えて、現在の製品に行き着いた。以来、吸い物だしにこだわらず、焼きうどん、から揚げや天ぷらから、浅漬まで、広く、旨みのもととしての使い方を工夫するうちに、守備範囲がぐっと広がった。社屋の中に設えられた、端正な茶室は、千利休待庵にあやかった設計。

※第21回日経ニューオフィス賞地区別部門 九州・沖縄ニューオフィス推進賞・九州経済産業局長賞 受賞オフィス(ミナミ商事)

http://www.minamishoji.co.jp/case_1.html


・・・ビルの中の「待庵」なんて、素敵な「おもてなし」ですよね。


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沼津御用邸記念公園東附属邸駿河待庵

410-0822静岡県沼津市下香貫島郷2802-1東附属邸055-931-2233

http://www.numazu-goyotei.com/

http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/goyotei/index.htm

環境の変化や交通体系の変革、施設の老朽化などにより、昭和44年沼津御用邸は廃止され、沼津市に無償貸与されました。同44年、「沼津御用邸記念公園」として都市計画決定され、翌年の45年開園。市民の憩いの場として利用されてきました。しかし建物のいたみも目立つようになったことから、旧御用邸建物の改修と庭園の再整備を、沼津御用邸造営百周年、市制70周年に当たる平成5年から本格的に行いました。平成5~7年にかけて西附属邸が、同8~10年にかけ東附属邸の改修が行われ、面目を一新しました。


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この再整備の中で西附属邸を中心に「歴史の庭ゾーン」として位置づけ、建物の主要部分と庭園の整備を行いました。改修に当たっては素材やデザインなど可能なかぎり原形に忠実に再現し、建物はもちろん、建具、照明機具、釘隠しなどの飾り金具から家具に至るまで、さまざまな史料を参考にしてかつての姿に復元しました。東附属邸は明治36年4月、皇孫殿下(昭和天皇)の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築し、造営されました。この東附属邸は、御学問所としての性格から、常住するための建物ではなく、臨時的な使用が中心であったと思われます。また、附属建物の増築が少し行われた以外は当初の姿をそのまま残し、昭和44年の廃止に至りました。大正3年に、東宮御所内に御学問所が設置され、皇太子殿下(昭和天皇)の教育に当たるために、東郷平八郎を総裁として、その下に副総裁・幹事各1人、評議員4人、御用掛十数名を配置する職員官制が定められました。沼津御用邸においても、東附属邸を東宮御学問所とすることになりました。この東宮御学問所制度は、皇太子殿下が大正10年にその課程を終了すると廃止されました。臨時的利用の東附属邸ではありましたが、明治37年1月の中山一位局を筆頭に、ここもよく利用されました。昭和20年7月の戦災で本邸が焼失したため、戦後は皇族の方々のご滞在にも利用された場合もありました。また、学習院の遊泳場が隣接して設けられていたことから、学習院にご滞在中の昭和天皇や今上陛下が夏期にはよくご利用され、ここから遊泳場に通われたりしました。

昭和45年に沼津御用邸記念公園として市民に公開されてからは、旧御学問所であった伝統を生かして、市民の日本文化を学ぶ研修所として利用されていました。平成8年から同10年にかけての再整備ではこの趣旨を生かして、新たに公共茶室や国宝茶室の写し「駿河待庵」を併設し、市民の文化・教養活動の拠点となる施設として改修されました。

苑内の一角には、本格的な日本庭園とともに、公共茶室「翠松亭」がございます。御殿と一体となった大茶会や、翠松亭だけの落ち着いた茶会を開くこともできます。八畳の広間は、多人数の茶会、大切なお客さまのおもてなしには四畳半の小間をご利用ください。翠松亭には、千利休作と伝えられる、京都大山崎の国宝茶室「待庵」を忠実に写した「駿河待庵」が併設されています。苔庭の露地のなかに佇むと、風雅を愛でた時代にさかのぼる心地がいたします。

・・・「待庵」を調べていると、「堀口捨己」という人がよく登場します。


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堀口捨己】(18951984

ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。1984年8月18日死去。本人の意向により、その事実は公にされなかった。関係者の間ではうすうす死亡したのではないかと噂されていたが、1995年1月28日に開催された「堀口捨己生誕100周年記念行事」の際に初めて公にされた。