彫刻ストリート(9) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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2015/2/11宝塚市が震災慰霊碑移設へ

宝塚市は、同市小林のゆずり葉緑地にある、阪神大震災の犠牲者を悼むモニュメント「鎮魂之碑」(高さ4メートル)を、同市末広町の末広中央公園に移設し、近くに犠牲者の名前を刻んだ銘板を新たに設置することを明らかにした。市は27年中に整備する方針。震災で、同市では118人が犠牲になった。市によると、「鎮魂之碑」は平成9年4月に完成した御影石製。毎年1月17日に献花と記帳が行われているが、訪れる人は平成15年の200人をピークに減少。昨年献花などに訪れたのは115人だった。遺族の高齢化が進むとともに、「交通アクセスが悪い」などの意見が寄せられていた。このため、市役所の近くにあり、交通の便のいい同公園に移設することを決めた。また、市が2014年、震災犠牲者の遺族を対象にアンケートを実施したところ、回答があった84世帯のうち61世帯が、犠牲者の名前を残すことを求めたことから、モニュメント移設に合わせて銘板も新設することとした。中川智子市長は「震災から20年たちようやく犠牲者の『生きた証し』を刻むことができる。来年は市民と一緒に思いを込めた追悼行事を営みたい」と話した。


・・・移設前に観ておきたくて、行ってきました。


たか1


ゆずり葉緑地

兵庫県宝塚市ゆずり葉台10797-71-1141

地域のシンボル的存在のゆずりは緑地」★砂防モニュメントの改修工事が行われています。平成年に兵庫県が「逆瀬川砂防学習モデル事業」として建設してから25年が経過し、経年劣化をしていることから月完工予定で工事が進められています。内部には砂防の歴史や砂防のはたらきなどが展示され、多くの人の学習の場にもなっています。兵庫県の砂防事業100周年を記念してドーム型のモニュメントが発祥地であるこの地に作られました。以後、学習の場であるとともに周辺の緑地と合わせて憩いの場にもなっています。このモニュメント周辺では年間を通じて、毎朝、ラジオ体操も開かれ元気な挨拶も飛び交っています。真夏にはモニュメントの日陰を利用しての体操はかないませんが、秋には装い新たなモニュメントの周りで、多くの方に集まっていただければと思います。平成27年月工事完了予定


たか2


ゆずり葉緑地鎮魂の碑タイムカプセル

西宮市との市境に近い宝塚市南西部の高台。「暴れ川」と言われた逆瀬川に、県内初の砂防工事が行われたのを記念してつくられた砂防公園「ゆずり葉緑地」に建っている。阪神大震災で宝塚市内では118人が犠牲になった。全壊3800棟、半壊8881棟。一部損壊も含めると約41200世帯が被害に遭った。「鎮魂の碑」は1996年5月、宝塚ライオンズクラブが建立を計画、市民からも寄付を集めて97年4月完成し、宝塚市に寄贈した。建立時の同クラブ会長、佐野行俊さんは「震災から日がたつにつれ、何かが欠けていると感じた。被災者の心のよりどころになればと思った」と話す。高さ5・5メートル、幅6・4メートル。八角形の台座の上に、碑文が刻まれた黒御影石が建ち、その頂に青御影石の球が乗る。台座の上には碑文の石も含め、長さの異なる計9本の柱が並び、人間の成長過程とあわせ震災で亡くなった幼い子どもからお年寄りまでを象徴している。頂点の球は「悟り」を開いた境地を表し、魂が天に届けとばかりに、4本の白御影石が取り囲んで空に向かって広がっている。碑の中にはタイムカプセル2個が納められている。犠牲者の名簿、震災の記録などとともに、市内の小中学生が書いた作文225作品が入っている。「復興夢作品」と名付けられ、10年後、30年後の宝塚がどうなっているかをつづっている。


たか3


ゆずり葉緑地公園の彫刻

http://nisinoin.fc2web.com/takara_sinai/h17_05/yuzutyou/index.htm

広大なゆずり葉緑地公園には、多数の石の彫刻がある。この彫刻は平成年『宝塚石彫シンポジュウム』で公開制作された時の彫刻で、この公園に設置されている。


たか4


200412/9】「ゆずり葉公園」1994石彫シンポジウムが1995大震災で震災モニュメントに

ここ「震災モニュメント公園」は市制40周年記念事業として人の彫刻作家が1994石彫シンポジウムとして「光の舞台」「帆」「風と光の足跡」等を制作するも1995の阪神・淡路大震災で倒壊損傷、年後市内の犠牲者80数名の冥福を祈り、修復して「鎮魂の碑」も建立され、公園内も整備・整頓された。「鎮魂之碑」と記された石の上には、「悟り」の意味を持つ丸い石。取り囲むように、志半ばで亡くなった人たちを表す本の黒い石が並び、両親の腕を思わせる高さメートルの白い石が本、空に向かって伸びる。静かな公園で、その存在感はひときわだ。同市では震災で118人が犠牲になり、2000人以上が負傷した。家屋の全半壊は12000棟を超えるなど大きな被害を受けたが、市内に犠牲者の魂を鎮める碑がなかった。震災から年後、宝塚ライオンズクラブの呼び掛けで市内外の850人が寄付し、碑の制作が始まった。御影石を発注した徳島県の石材店は利益を考えず、原価で仕事を引き受けた。2004当時、同クラブの会長だった佐野行俊さん(63)は「碑が被災者の心のよりどころとして、市民に伝わればうれしい」と話す。一方、子どもの素直な目で見た被災地を記録しようと、1997月の完成からカ月後、碑の地下に「十年後」と「三十年後」のタイムカプセルが埋められた。当時の小学生が震災から十年後の街を思い描いた「復興夢作文」や壊滅的な被害を受けた地域の復興予想図など17の作品が眠る。震災10年を迎え2005月、「十年後」のカプセルが開封され、「あの時」の子どもたちの夢がよみがえ。当時、宝塚小六年で作文を書いた田中千恵さん(20)は、鹿児島大学で歯科医療を学ぶ。「あの日、まちの変わりように腰が抜けて歩けなくなった。プレハブの校舎で学んだ日々。十年前の自分に会いたい」と、“再会”を心待ちにしている。


たか5


・・・せっかくなので、久しぶりに「宝塚大劇場」へ。