天橋立旅(13) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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「みやづ歴史の館」は、文化ホール、中央公民館、情報コーナー、体験学習室などを備える複合施設。建物の外観は、「北前船」の帆をデザインしたもので「海園都市みやづ」のイメージを表現している。


宮津市歴史資料館は、現在休館しております。


あわ1


【細川ガラシャ夫人

細川藤孝、忠興父子は、宮津及び舞鶴の城主であり、細川ガラシャも宮津で数年暮らしている。細川ガラシャは、明智光秀の次女(三女という説もある)”玉”である。永禄6年(1563年)に生まれている。天正6年(1578年)細川藤孝の長子、忠興と結婚し、細川氏の居城勝龍寺城(京都、長岡京)に入り、のち、丹後宮津に移っている。この結婚は、織田信長の勧めたものであり、細川藤孝は織田信長、豊臣秀吉に信任厚く目をかけられていた。特に忠興は秀吉に可愛がられた。天正8年(1580)4月、忠興、玉の嫡子忠隆誕生、この年、忠興丹後十二万石の国守となる。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、父光秀、信長への謀反で忠興より「同室叶うべからず」として、丹後半島の弥栄味土野に幽閉される。天正10年7月、信長の後継者、秀吉から忠興、丹後を安堵されている。天正12年秀吉より再婚許される。1587年玉25歳の時、忠興島津義久討伐のため九州へ出陣、不在中にキリスト教に入信、「ガラシャ」の霊名を授かる。1588年、26歳、宮津にて次女多羅を出産、1598年36歳、三女”まん”を出産、1600年38歳、6月、忠興家康に従い上杉景勝討伐のため関東に出陣、7月17日、大阪細川屋敷にて石田三成より人質として大阪城入りを要請される、これを拒否、自らの付け人の手にかかり昇天。辞世の句、「散りぬべき、時知りてこそ世の中の、花も花なれ、人も人なれ」7月20日、父幽斎、宮津城自焼し舞鶴田辺城にて籠城、9月15日、忠興関ヶ原合戦に出陣、11月、忠興家康より豊前39万9千石を与えられ宮津を去る。1601年忠興、オルガンティノ神父に依頼し、大阪にてガラシャの教会葬を行う。


あわ2


◆「島崎公園」/626-0017京都府宮津市島崎2007-6

●「庭園ゾーン

市民のやすらぎの場として作られた。庭園の中心にある池に「眼鏡橋」の愛称で親しまれた旧大手橋が当時の二分の一のサイズで再現された。旧大手橋は、明治19年に市街地を流れる大手川に架けられた。栗田トンネル建設で切り出した花崗岩を使用した3連アーチの石橋。庭園内には、旧大手橋に使われていた歴史ある石を利用した滝を作り、石製の「松の橋」「水の橋」木製の「天の橋」「廻の橋」などがあり、水の流れにも親しめる。落ち着きのある和風庭園の雰囲気醸し出す。


あわ3


モニュメント1994海燕」/作:粟津潔

巨大な二つの輪は「宇宙」や「人の輪」を、輪に集まる小さな燕は四季の豊かさと市民の幸福を表している。輪の青色は宮津の済みきった青い空と海を、赤色は市民の情熱を市の未来への発展を表現。タイトル海燕は「海園都市みやづ」のもつ言葉の響きとも合わせてつけられたもの。モニュメントの前にある小さな椅子は、市内の小学校で使われていた木製の椅子をブロンズでかたどり造ったもので、ここに座って記念写真を撮ることにより、その情景がいつまでも心に残るようにとの願いが込められている。このモニュメントと円形の広場は、”歩ら輪ぐルート”の拠点として、また天橋立を一望できる市民の憩いのとして整備された

粟津潔】(1929~2009

1929年東京都生まれ独学で絵・デザインを学ぶ。1955年、ポスター作品『海を返せ』で『日本宣伝美術会賞』受賞。戦後日本のグラフィックデザインを牽引し、さらに、デザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張していった。1960年、建築運動「メタボリズム」に参加、1977年、『サンパウロビエンナーレ』に『グラフィズム三部作』を出品。1980年代以降は、象形文字やアメリカ先住民の文字調査を実施。イメージ、伝えること、ひいては、生きとし生けるものの総体のなかで人間の存在を問い続けた。その表現活動の先見性とトータリティは、現在も大きな影響を与えている。

●「宮津市立前尾記念文庫」

626-0041京都府宮津市字鶴賀2164-2/0772-22-4198

宮津市名誉市民で元衆議院議長前尾繁三郎氏のご遺志により、個人の蔵書約3万5千冊と建設資金の寄附で建てられた文庫。


あわ4


1783旧三上家住宅」/重文指定年月日:20031225

626-0014京都府宮津市字河原18500772-22-7529

http://www.amanohashidate.jp/mikamike/

三上家は宮津城下の西方にあり近世には酒造業廻船業糸問屋等を営んでいた商家である。河原町通りに面して屋敷を構え妻入の主屋を中心として南側に新座敷庭座敷を連続し北側に釜場と酒造蔵などを配している。主屋は天明3年(1783)の宮津大火で類焼し同年中に建てられた。新座敷は文政3年(1820)酒造蔵は文政13年(1830)庭座敷は天保9年(1838)の建設とわかる。商家としては規模も大きく主屋に加え別棟で建つ接客空間も上質なつくりで酒造蔵や釜場などの施設もよく残り高い価値がある。主屋は徹底した防火構造の採用や隅扇垂木の軒廻りなどに特色があり建築時の状況も普請関係文書から知ることができ貴重な遺構である。


あわ5


・・・ぼちぼち大阪へ帰りつつ、寄り道したいと思います。