・・・続大学ミュージアム(32)「大阪市立大学」から「住吉大社」方面へと散策してきましたが、この近辺に重要なスポットがあることを思い出しました。急遽、「待望のミュージアム」に切り替えて散策を続けることにします。
◆哀愍寺「千切地蔵尊」/住吉区住吉2丁目
浄土宗知恩院末。本尊の阿弥陀如来像は恵心僧都の作と伝えられています。「ちぎりさん」と呼ばれている地蔵があります。別名を十徳地蔵といい、女人安産、水火安全、諸病消除などの十の願いをかなえてくれるそうです。
【藤澤桓夫】(1904~1989)
大阪を描き続けた大衆作家であり、大大阪と呼ばれた時代に文化で支えた人物。終生住吉に住み続け、代表作『新雪』は映画化され、『天使の羽根』はNHKでドラマ化されるなど、数多くの小説を残しました。秋田実・長沖一・武田鱗太郎・織田作之助などの多くの作家と交流がありました。また、彼の『大阪自叙伝』などの随筆は、大阪を知る上での貴重な資料です。
★大阪文壇の長老たたえ藤沢桓夫の邸宅跡に顕彰碑
大阪出身の作家・藤沢桓夫の顕彰碑が大阪市住吉区の「西華山房」と呼ばれた邸宅の跡地に完成し、2015年3月15日に除幕式が行われた。施主は一人娘の章子さん(52)で、大阪文学振興会や地域住民らでつくる住吉文化事業実行委員会、行政が協力。邸宅をモチーフにした鉄製の屋根が付き、自筆原稿の写しなどを展示している。除幕式には、遺族や近隣にある住吉大社の高井道弘宮司、吉田康人区長らが出席。小雨交じりの曇り空となったが、幕が取り払われると地域の住民らが熱心に説明書きを読んだり、写真を撮ったりしていた。章子さんは「亡き父は大阪を愛し、文学を愛し、住吉で書き続けた。大勢の賛同を得て立派な顕彰碑ができたことをきっと喜んでいるはず」と目を細めていた。藤沢は昭和を中心に流行作家として活躍し、「大阪文壇の長老」と呼ばれた。「西華山房」には川端康成ら多くの作家や文化人が集い「文学サロン」として重要な役割を果たした。現在は書斎部分のみが同じ敷地内に残されている。(2015年3月16日大阪日日新聞より)
【住吉区の都市景観資源】
http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000162573.html
◆「蔵のある住宅」/住吉区墨江1-5-14
大歳神社から国道479号線に向かうとすぐ左手に見られ、白壁と板壁の珍しい造りをしている。白壁と板壁の蔵、カイヅカイブキの古木、和風とモダンの住宅が美しく調和している。白壁よりも板壁の部分が多い珍しいデザインであり、保存状態も良い。同じ敷地内にある居宅も、和洋折衷の面白い建築である。歴史の変遷の名残をとどめた景観である。
◆「大歳社」/住吉区墨江1-5
住吉大社の境外末社で、祭神は大歳神 (おおとしのかみ) 。収穫の神であるところから、集金・商売繁盛・家内安全・願望成就に神徳があり、毎月最初の辰の日に参る「初辰まいり」では、種貸社、楠珺社、浅沢神社と参り、ここで集金・収穫に感謝してしめくくる。拝殿右横の石柱の上にある丸い石を「おもかる石」と呼んでいる。商売繁盛の御利益のある神社として、また、「初辰まいり」の最後の神社として親しまれており、気楽に訪れることができる名所となっている。拝殿横の石柱の上にある「おもかる石」についての言い伝えも興味深い。
★2015/04/25かきつばたが咲き始めました
http://www.sumiyoshitaisha.net/topic?id=5
本年も「浅沢社」の堀で色鮮やかな青紫色のかきつばたが咲き始めました。古来、このあたりは浅沢小野と称する「浅沢沼」があり、カキツバタの名所でした。万葉集にも「住吉の浅沢小野の杜若衣に摺りつけ着む日知らずも」と詠まれている大変由緒あるかきつばたです。見頃は例年5月上旬~下旬となっておりますのでご参拝の際はぜひお立ち寄りください。
★「住吉の長屋」/設計:安藤忠雄
【参考】建築をぬける風
私(安藤)の初期の仕事である「住吉の長屋」の核心は、狭い敷地の三分の一の面積を占める中庭の存在にあった。住まいの中に直に自然が入り込んでくる分、冬の寒さは厳しい。雨の日には傘をさしてトイレに行かねばならない。住まい手に不便な生活を強いる提案は、ときに建築家の横暴と批判を受けた。だが、住まいの何を喜びとするかは、そこで過ごす人間の価値観の問題である。大阪下町の猥雑な都市環境を前に生活とは何か、住まいとは何かを徹底的に考えた末、私は、自然と共にある生活にこそ人間生活の原点があるという結論に行き着いた。スペース、コストともに極限に近い条件下での都市住宅・・・だからこそ安易な便利さより、天を仰いで“風”を感じられる住まいであることを優先した。この小住宅を原点として、今日まで30年間余り建築活動を続けている。年代を重ねるごとに仕事の規模は大きく複雑化して、現在は欧米から中東アジアまで、世界各国で都市プロジェクトを手掛ける状況だ。だが、“建築を通じて何を表現するか”という根本の姿勢は30年前から何も変わっていない。15坪足らずのコンクリートの長屋、中東のアブダビで計画中のモニュメンタルな文化施設、あるいは現在、東京で進めている環境を主題とした都市再編プロジェクト――いつも心に描いているのは、人々の心に生の感動をもたらす建築をぬける“風”の情景、自然と共生しつつそこに住まう人間の意志を表現していく建築だ。安藤忠雄
・・・個人の住宅です。ご近所も含めて迷惑をかけないように、さりげなく通ります。安藤建築の原点、私自身の原点も同時に観る思いがします。
◆「丸山の庭」/住吉区住吉2-14-4
住吉大社周辺は古くから海上と陸上の交通の要衝として栄えたまちで、旧熊野街道と旧住吉街道の交差する位置にあり、古くから町家と社寺や街角の豊かな緑が、歴史的な雰囲気を今に伝えています。特に、住吉大社境内の豊かな樹林、かきつばた苑や卯の花と実、まちかどの古木や鉢植えなどが、お祭りの年中行事を通じて花鳥風月を楽しむ土地柄とともに、四季折々の風情を感じさせる街並みを形成しています。この「丸山の庭」は、墨江連合社南振町会のご強力により、歴史的なまちなみや景観など地域の特性を活かし、魅力ある居住地の形成を図る「HOPEゾーン事業」の一環として大阪市と連携して整備したものです。丸山大明神(丸山塚)には、仁徳天皇の御子「墨江中王」(住吉仲皇子)が祀られています。日本書紀などには、仁徳天皇の崩御後、墨江中王が兄の去来穗別皇子(後の履中天皇)と対立、敗死したことが記されています。墨江中王は住吉と関係が深い安曇連や淡路野島の海人などを味方に戦ったようで、難波(履中天皇)対住吉(墨江中王)という古代の二大勢力の衝突だったのかもしれません。大王(天皇)に叛いたので、公式の墓がありませんが、縁の深い住吉大社に程近い丸山塚に葬られ、地元の人たちに守られながら今も静香に眠っていると伝えられています。
・・・阪堺電車「細井川駅」の方へ行くと、ちょうど「堺トラム」がやってきて、ラッキーでした。